武官、豊邑に帰還する


 楊ゼンの懸念は杞憂に終わり、決起集会の日を迎えても襲撃はなかった。もっとも、豊邑の方ではスパイ騒ぎがあったようだが……。

「無事この日を迎えられて何よりです」

「ええ、そうですね」

 名前と楊ゼンは一時豊邑へ帰還していた。要塞に残してきた兵への不安はあるが、二人とも豊邑でやるべきことがある。殷の方もただの人に仙道をぶつけることもないだろうと楊ゼンは見込んでいた。

「ではまた、のちほど」

 名前は楊ゼンと別れ、諸侯の迎えに走った。
 彼らは一様に贈り物を従えていた。諸侯への挨拶と荷の検分。目が回りそうな忙しさだ。
革の上着やら駿馬やら。どれも一級品であったが、上質な鉄を使った剣はなにより名前の目を惹いた。
 「よろしければ、」と名前に献ずる意思を示した諸侯もいたが、名前はいずれも固辞した。

「お気持ちだけで十分です」

 跡目を継いだばかりの青年に言うと、彼は困ったように目尻を下げた。「あなたがそう言うのなら仕方がないですが」まだ何か言いたげな様子に、名前は目で先を促した。
 青年はひとつ咳払いをした。微かに赤みを帯びた頬。瞳を揺らして、彼は名前に言う。

「戦が終わったあと、また我が領地に来てはくださいませんか」

 青年の領地は西方ーー遊牧民とのいさかいが絶えない場所にあった。だから武官である名前も以前その地を訪ね、争いを鎮めたことがある。けれど今目立った騒ぎはないはずだ。
 それでも来てほしいというのか。疑念に名前の顔が彩られると、青年は慌てて言葉を続けた。

「いえ、うちとしてはできればその……これから先ずっとあなたに我が領地を守護していただきたく」

「あぁ……」

 なるほど、と名前は吐息だけで頷いた。そういうことか。ようやく青年の言わんとしていることを理解し、しかしそれは叶えられないと緩く首を振った。

「申し訳ありませんが……しかしいずれそちらに赴くことは約束いたしましょう」

 名前の答えに青年は肩を落とした。「そうですか……」その声はずいぶんと弱々しい。けれど名前が翻すことがないと悟ると、「わかりました」と頭を下げて去っていった。

「ずいぶんはっきり断るのう」

 感心したような声に振り返る。不意の登場にも慣れてきたから驚きは少ないが……名前は眉を下げた。

「太公望どの……、見ていたのなら声をかけてくださればよかったのに」

「いや、おぬしが承諾するようなら止めておったぞ。だがそうではなかったからな」

「それは……当然でしょう」

 今は国の大事だ。それを放って他の領地に嫁ぐことはできない。名前の心情的にも、情勢的にも。

「それに正式なものでもありませんし。……だとしてもお断りしていたでしょうが」

 とはいえ家を通したものだったら名前も一考していた。せざるを得なかった。だが彼のあの様子なら南宮括にまで話がいくことはないだろう。そしてそれは名前にとって好都合でもあった。
 そう言うと、太公望も頷いた。

「まぁ、おぬしの父が認めるはずもないか」

 あの顔で親バカだからのう、と太公望はやれやれといいたげに両手を挙げた。こんなに話題にされては今頃くしゃみをしていそうだ。
 ……そんなことより。

「姫発さまはどちらに?てっきり太公望どのとご一緒かと思っていたのですが」

 帰還した折りに挨拶して以来会っていない主君の姿。太公望の後ろにも隣にもいない影に微かに不安を覚えた。
 そんな名前に太公望は呆れ顔だ。「おぬしはおぬしで姫発離れができておらんのう」と言って。

「武王ならば原稿の暗記に手間取っておるぞ」

「原稿の暗記……」

 武王の演説。それがこの集会の目玉だ。これ抜きには語れない。
 だからこそ太公望は武王のために原稿を作った。それを暗記するくらいならできるだろうと。
 だが姫発は元来座学が苦手であった。長時間座っていられない質なのだ。

「大丈夫かしら……」

「なに、案ずることはない」

 気を揉む名前に対し、なぜか太公望は自信ありげだった。
 その理由を目で問うと、彼は勿体ぶった様子で「いや、なに」と口を開く。

「わしは発破をかけてやっただけよ。ここで男を見せんでどうする、とな」

「それで姫発さまはやる気になったのですか?」

「そりゃあ、もう。効果覿面よ」

 名前には太公望の自信がわからない。記憶にある限り、姫発には男気への拘りなどなかった。それがどうして急に。
 おまけに太公望は「助かったぞ、名前」と肩を叩いた。そう、名前のお陰だと彼は言うのだ。何もした覚えはないのに。
 まぁ、ここは太公望を信じよう。

「ところで太公望どの、」

 そこで名前は声を落とした。そう、名前には先刻から気にかかっていたことがあったのだ。

「その……後ろで何やら怪しげに窺っている者はいったい、」

 姫発の姿を探して太公望の後ろを見たときだった。柱の影から覗く一対の目と視線が交わった。それは慌てて影に隠れたが、その態度は不審者のそれだった。
 とはいえ太公望が気にした素振りも見せないので問題はないのだろうが……気になるものは気になる。
 太公望は「あぁ、」とそこで面倒くさそうに溜め息を吐いた。

「アレが例のスパイだ」

「スパイ……」

 あれが?と名前はまた視線を太公望の背後にやった。そっと。
 少女らしく結ばれた色鮮やかな髪。真剣な色をした瞳。……かけらも消されていない気配。
 あまりに諜報員らしくない風体。にわかには信じがたい。が、太公望が言うのならそれが真実なのだろう。

「ご挨拶した方がよいのでしょうか……?」

「いい、いい。どうせあやつのことだ。勝手に嗅ぎ回ってるだろう」

 スパイの名は�ケ蝉玉。既に周の民衆には受け入れられていると太公望は言った。
 それでいいのか、と名前は思った。殷と戦争の真っ只中だというのに、あまりに緩すぎる。
 頭を押さえると、太公望に慰められた。

「わしもそう思うぞ……」

 思いを同じくする者がいてホッとした。そう続けた太公望の神妙な面持ちに、名前も嘆息で答えた。周の民のお祭り好きにも困ったものだ。