武官、道徳真君に託す


 負傷し、仙人界へ一時帰還した天化、ナタク、雷震子。
 彼らの代わりだ、と太公望が連れてきたのは崑崙山の仙人3人だった。

「そんな、わざわざご足労いただくなんて」

 恐れ多い、と恐縮する名前に、太公望はあっけらかんと言い放つ。

「そんなに頭を下げることもなかろう。なんせ、狂科学者に体育会系に変人の色もの仙人3人組だからのう」

「だから一緒にするなっつーに」

 太乙真人の苦情も太公望には届かない。彼はちっとも意に介さず、かかっと笑った。
 名前としては楊ゼン、太公望だけでも十分だったが、遠路はるばる来てくれたのだ。無下にはできない。が、かといって仕事を与えるのも名前にはできなかった。周公旦なら何の気兼ねもせずやってのけたろうが。
 とりあえず3人には集会に参加していただくことになった。彼らは仙人だ。何もせずとも居るだけで民衆の士気も高められるだろう。そう、名前は考えた。

「では、よろしくお願い致します」

 一礼し、周公旦に報告しようと踵を返した。
 が。

「あっ、ちょっと待ってくれないか」

 と呼び止められ、振り返る。
 声の主は道徳真君だった。

「いかがなさいましたか?」

 名前は困惑を隠しきれなかった。
 道徳真君。黄天化の師。その人となりは天化から聞いていたが、言葉を交わしたのは魔家四将戦のあと、それも挨拶くらいなものだった。だから彼が名前に用があるとは思えない。
 心当たりのなさに恐る恐る訊ねたのだけれど、道徳真君は気にした風もない。「先に行っててくれ」と太公望らに言い、朗らかな笑顔を名前に向けた。

「いや、天化から預かりものをしていてね。いやいや、忘れるところだった」

 そう言った彼が懐から取り出したのは一通の文だった。

「天化どのが、わたしに……?」

「ああ。たしかに君に、と」

 文は上質な紙でできていた。けれどそれだけだ。折り畳まれたそれは外からは内容などひとつも窺えなかった。
 なのに、なぜだか受け取る手が震えた。心臓は音を立て、下腹はむず痒さを訴える。まるで病にでもかかったみたいだ。
 なのに道徳真君は名前に微笑ましげな目を向けた。

「そんなに喜んでもらえるとは。師の私まで嬉しくなってしまうね」

 涙を拭う真似をする道徳真君を名前は呆然と見上げる。
 喜んでいる?誰が?ーーわたしが?
 天化から文を貰った。確かに嬉しい。彼ほどの戦士に認められるというのは喜ばしいことだ。当然だろう。
 ーーでも、本当にそれだけなのだろうか。
 これまで生きてきて喜びを感じたことは幾度もある。けれどこれほどの苦しみをもたらす喜びを名前は知らなかった。これが歓喜によるものだということすら疑った。
 誰かに相談したい、と思った。でも誰に話せばいいのかわからなかった。誰にも話せないとなんとなく思った。そう、天化にだって。

「ありがとう、ございます……」

 やっとの思いで口にしたのはそんなありきたりな言葉だった。戸惑いに支配された名前には気の利いた台詞など思い浮かぶはずもなかった。
 それでも道徳真君は満足げだった。文を抱き締めた名前の肩を一度叩き、大きく頷いた。「君でよかった」そう言って。

「君のことは天化から聞いているよ、優れた剣士だって」

「そんな、」

「君ならいつでも歓迎だ。待っているよ、私も、天化も」

 彼は名前の将来を言っているのだ、と名前はぼんやりと理解した。仙人界へ行くという未来を。
 思い出すのは先日楊ゼンと交わした言葉。彼からもらった助言。名前は、息を吸った。

「ーーその時が来たら、」

 お願いします、と今はそれしか言えない。それがもどかしい。彼らの優しさに報いることができないのは、思った以上に名前の胸を苦しめた。
 そんな名前の心中すら見抜いているのか。「あぁ」と道徳真君は鷹揚に答えた。「いつでも歓迎だと言ったじゃないか」その眼差しは柔らかく、父親のそれを想起させた。
 だからーーだろうか。

「あの、これを」

 用は済んだとばかりに立ち去ろうとした道徳真君の袖を引いてしまったのは。懐に忍ばせていたものを差し出してしまったのは。

「これは……?」

「……天化どの、に」

 言ってから、後悔した。当てなどないのに文を用意していたなんて、どう思われても仕方がない。それも後生大事に持って歩いていただなんて。
 名前の手は先程とは違う意味で震えていた。羞恥。その一点で。けれど出してしまった以上引っ込みがつかない。どうにでもなれーー破れかぶれな気持ちで、名前は言葉を重ねる。

「楊ゼンどのから助言を受けまして。いない間のことをつぶさに報告できるように、と。だから、その、」

 口早に言い連ねるのは動揺している証拠。それにまた恥ずかしさを覚え、名前の頬は熱くなる。
 始まりは確かに楊ゼンの言葉だった。彼の勧めがあったから名前は筆をとった。行き場のない天化への思い。怪我の回復は順調だろうか。なんの障害も残らないのだろうか。そんな不安を吐き出すのと平行して、日々の出来事を書き連ねた。太公望発案で砦を作り始めたこと。殷からのスパイがやって来たこと。彼に報告すべきこと、報告したいことはいくらでもあった。
 けれど次第に筆は方向性を違えていった。今なにをしているだろうか。なにを思っているだろうか。元気にしているだろうか。ーーわたしの胸には、白々とした空虚が巣食っているのに。
 それは恨み言のようで、書いてから名前は後悔した。けれど捨ててしまったらまた吐き出さずにはいられなくなりそうだった。かといって部屋に残しておくこともできず、こうして持ち歩くしかなかった。
 それをいま、名前は差し出していた。表に出してしまっていた。徒花で終わるはずの思いを、押しつけようとしていた。

「ーーやっぱり、」

 やめよう。
 思い直し、手を引こうとした。
 しかしそれより早く道徳真君の大きな手が名前を引き止めていた。

「どんな内容だろうと天化がそれを否定すると思うかい」

 それは否だ、と道徳真君は自分の目で雄弁に語っていた。その真剣さに名前は呑まれた。彼の言う通りだ、と思った。

「でもそれは彼の優しさに胡座をかいていることになりませんか?」

「それを含めて受け止めるのが男というものさ」

 道徳真君は「必ず天化に渡そう」と名前に約束した。名前は躊躇いを残しながらもそれに答えた。

「お願いします」

 ーー天化は、どう思うだろうか。
 文が届いたあとのことを考えると頭に熱が走る。砂漠で砂嵐に襲われたみたいに先が見えなくなった。あるいは盛夏の昼下がりに見舞われる目眩のようだった。
 だから名前は目を背けることでそれに対抗した。逃避だとは頭でわかっていても、今はまだ直視する勇気が持てなかった。