武官、幼年期の終わりを知る
集会のあと、名前はすぐに建設中の砦に引き返すつもりだった。けれど高揚した雰囲気のなか、お祭り好きの周の民がおとなしくしていられるはずもない。宴会を開こうとなるのも当然だった。
だから名前と楊ゼンは出立を翌日に変えた。どのみち武王らは政務ですぐには豊邑を離れられないのだし、急ぐ旅でもない。楊ゼンも砦に残した兵を気にした様子もなく、むしろ自分たちがいなくとも建設は進むだろうと信頼を寄せていた。それは名前にとって喜ぶべきことであった。まるで自分が認められたかのように感じられたのだ。
その気持ちを文に表そうとしてーー文を道徳真君に託したのを思い出した。習慣とは恐ろしい。今はもう懐にないそれを取り出そうとしてしまった。
代わりにあるのは天化からの文。先刻読んだばかりの伸びやかな文字列が鮮やかに甦る。怪我の具合やこちらへの気遣いや、そうしたものが綴られた文は決して長いものではなかったのだけれど、名前の胸を十分すぎるほど熱くさせた。
また読み直そうか。頬を緩ませ胸元に手をやった時だった。部屋の外から姫発の声が問いかけてきた。
「名前、今空いてるか?」
名前がいたのは城内の書庫だった。今宵の宴の用意を手伝おうと思ったが止められてしまったのだ。翌朝すぐに豊邑を発つのだから休んでほしい。そう女官にまで言われれば引き下がるしかない。
といっても手持ちぶさたなのは確かで、普段手をつけていない書庫の整理でもしようかと思っていたところだった。
だから姫発の問いに名前は頷いた。すると彼はわかりやすく喜びを顔に表した。
姫発は名前を遠乗りに誘った。それは名前に驚きをもたらした。彼から遠乗りに行きたがるのは長じてからは滅多にないーー彼は遠乗りよりも野遊びの方が性に合っているらしかったのだ。
その驚きを名前は正直に言葉にした。
「馬に乗るのは好きではなかったのでは?」
「たまには乗りたくなるときもあるだろ」
そういうものかしら、と馬を並べながら思う。名前だったらいつまでも駆けていたいくらいなのだけれど。
昼の一番暑い時間を過ぎた豊邑は、それでも乾いた風が吹いていた。だがもっと西方だとマントが手放せないくらいの日差しだった。酷いときは行軍が止められることもあったな、とかつて参加した戦を思い出してしまうのは集会の前に交わした会話のせいだろうか。
引き換え、豊邑は過ごしやすい気候だと思う。西方のような激しい雨に降られることもないし、夏の日差しと冬の乾きに目を瞑れば悪いことはない。もっとも、それは名前の欲目かもしれないが。
だが春の花の美しさは他に引けをとらないだろうーー名前には自信を持って言える。今歩いている山道も花々で色鮮やかに染め上げられている。流れる空気にすらも色がついている気がした。
「きれいですね」
「あぁ、……本当に」
姫発は言葉少なに答えた。それが名前には気にかかった。何か心にあるのだろうか。
「しかしよく外出の許可がでましたね。危険性についてもですけど、周公旦さまが武王さまを離すまいと思っておりました」
そこで姫発はちらりと名前を見た。その目がなにか物言いたげで、名前は内心身構えた。
けれど姫発はすぐに視線を前に戻した。「その通りだよ」その声はやれやれといった響きをしていた。
「大変だったんだぜ。旦のやつ、次から次へと書類を持ってきやがるもんだから気が狂うかと思った」
そこを助けたのが太公望らしい。「たまの息抜きも大切だろう」いかに優秀といわれる周公旦でも太公望の口には敵わない。
その様を想像して、名前は微笑んだ。実年齢に見合わぬ苦労を抱えた旦だが、太公望といると年相応に見えるときがある。
そんなことを話しているうちに姫発は馬を止めた。ここから先は道が細くなる。彼が鞍から降りるのを見て、名前も同じように滑り降りた。手を貸そうとしていた姫発のそれが一瞬宙をかく。しかしそれを名前に悟らせることなく、その手をとって歩き出した。
森の中には穏やかな時が流れていた。時々揺れる木立の囀ずりや小鳥たちのささやかな歌声。そうしたものには目をくれず、姫発は足を進めた。その半歩あとを手を引かれながら名前は着いていく。無言の背中が少しだけ怖く感じた。
道の先では一気に視界が広がった。行き止まりーー一歩先は崖になっているのだ。
そこからは豊邑を一望できた。城も民家も城壁も、幼年期のすべてがそこにあった。そこから先のことなど何も知らなかった頃の二人があった。
「覚えてるか?」
足を止めた姫発が指を指す。その先を追いかけて、名前は「ええ」と首肯した。
日差しを受けて輝く小川では幼いときに姫発らと遊んだことがある。足を滑らせた姫発と彼に引き摺られた名前。二人揃って尻をしたたかに打ち付けた。痛い思い出だ。それを伯邑考に慰められたのすら当時は情けなくて名前は涙を堪えた。
「武王さまは大泣きなさったのですよね。涙だか水だかわからないくらいの濡れ鼠でしたけど」
「バカお前いらないことまで思い出すんじゃねぇ」
からかうと姫発に額を小突かれる。その痛みすら懐かしさを感じさせた。
「わたしの記憶力のよさを舐めてもらっては困ります」名前は笑いながら姫発とは別の場所を指した。そこには二人が子供の頃からある畑が見えた。
「あちらで姫発さまがつまみ食いをなさったのもお叱りを受けたのもわたしはちゃんと覚えています」
言うと、姫発は苦い顔をした。
「もっと格好いいこと思い出せよ……」
文句をつけながらもその口許は笑っている。乱暴に名前の髪を掻き回す手はひどく楽しげで、名前は抗議しながらも真に止めることはしなかった。
「なんですか、もう」
「いや、」
姫発は手を止めると、今度は優しく名前の乱れた髪を直した。その手つきはぎこちなさが残っていて、なのに見下ろす目はずっと大人びていた。
「……武王、なんてよそよそしい呼び方やめろよ」
名前は言葉を呑んだ。それはできません。そう言いかけて、苦しげに細められた目に喉を詰まらせた。
断るべきだ。姫発が望もうと望まざると、彼は王となった。なったからには名前も分を弁えなければならない。そうでないと示しがつかない。たとえ彼が許しても、周りが許さないだろう。
「……こういう、時くらいなら」
名前にはそう言うことしかできなかった。本来はそれすら許されないにも関わらず、それでも拒絶することができなかった。どちらが臣下として正しいのか、名前にはわからなかった。
姫発は「わかった」と言った。俯いた名前からはその表情は見えなかった。見てしまったら何かが変わってしまう。そんな予感があった。
「まぁ、アレだ。変わるもんばっかりじゃあねーってこった」
姫発の手が名前の肩を叩く。
たぶん彼は恐れているのだ。自分が王となったことで変わっていく環境を。寂しいと思ったのだろう。きっと、それだけだ。それだけならば名前にも理解できた。受け入れることも、また。
「変わりませんよ。……変わるはずもありません」
恐れているのは名前も同じだった。いや、本当は名前こそが一番厭っているのかもしれない。己が目を反らしていることは自分でもわかっていた。
二人は豊邑を見下ろした。幼少期の思い出が二人の中で駆けていった。そしてそれが最早届かないところにあることを二人ともが理解していた。
もう城壁の外を知らなかった子供はいない。ひとりは王となり、もうひとりはーー
「どうだ、砦の方は順調か?」
沈黙を破ったのは姫発だった。いつだって名前の手を引くのは彼だった。伯邑考ですらそれをしなかった。彼が見守る中を名前の手を引いた姫発が導いてくれていた。ずっと、そうしてきた。
「ええ、楊ゼンどのがいらっしゃいますから」
「そうか」
姫発は「あーあ」と言った。どこか芝居がかった言い回しで、溜め息を吐いた。
「こんなことならさっさと伯邑考あんちゃんと結婚させときゃあよかったぜ」
その台詞は思いもがけないものだった。
姫発は目を丸くした名前を柔らかな瞳に映す。「そうすればさ、お前も面倒な目に合わなかったろ」太公望から聞いた、と彼は続けた。名前が西方の邑から求婚されたことを。
この国に義理の子や姉、妹を娶る文化はない。もし名前が伯邑考と結婚していればたとえ彼が亡くなったとしても姫発の義姉という立場が変わることはなかったはずだ。
けれどそうしたことをこれまで姫発は一度だって口にしたことがなかった。伯邑考との結婚の話が彼から出たときにだって、姫発はその件に触れてこなかった。
なのに、今さらどうして。
姫発も幼年期の終わりを感じているからだろうか、と名前は考えた。だとしても砦の話からそちらに飛んだ理由がわからない。
その答えを出す前に姫発が言葉を紡いだ。
「……帰ってこいよ」
それは静かな声だった。同時に、とても頼りなげな声でもあった。
名前はハッとした。見抜かれていた。豊邑の景色を見て、もう二度とこの地を踏むことはないのかもしれないと考えていたことを。ーー仙人界への憧れを抱き始めていることを。
名前はすぐには答えられなかった。はいともいいえとも言えなかった。けれど忠義は変わらず胸にあった。それだけは揺るがぬ真実だった。
「……この剣は、あなたに」
それしか今は言えない。
姫発は泣きそうな顔をしていた。変わりたくないと願っている名前すら変わり始めていることを実感した。
どれほど胸が痛もうと、今の名前に彼を抱き締めることはできない。幼年期はとうに過ぎ去ってしまったのだ。