武官、自覚する


 文字を指でなぞる。のびのびと、しかし乱れなく書かれたそれは彼の人柄を表しているかのようだった。流れるような文字は彼の剣技を思い出させた。

「天化どの……」

 このところ天化からの文を寝る前に見返すのが日課になっていた。今日も名前は自分に与えられた部屋の中でひとり文を開いていた。
 石造りの部屋は堅牢で、室内には名前の息遣いしか聞こえない。灯りは獣脂の蝋燭のみで、小さな窓の外は暗闇が広がっている。静寂。それは名前の心に油断を生んでいた。

「ねぇちょっと、ハニー知らない?」

 だから入り口にかかる織物が揺れたときには思わず身構えた。その声の主が蝉玉だと気づくとすぐに力を抜いたが。

「土行孫どのですか?見ておりませんが」

「そうなの?じゃあどこに逃げたのかしら……」

 太公望のとこにもいなかったし、と蝉玉は頬に手を当てる。
 彼女はこんな夜更けに土行孫を探しに歩いているのか。名前としては逃げた土行孫に同情すべきか逃げられた蝉玉に同情すべきか判断に困る。とはいえ女性ひとりというのも心許ない。
 名前は「お手伝いしましょうか?」と席を立とうとした。それを止めたのは他でもない、蝉玉だった。

「いいわ、あなたの恋路を邪魔する気にはならないし」

「恋路……?」

「違うの?」

 名前は蝉玉の言葉に、蝉玉は名前の言葉に、それぞれ首を傾げた。お互いに誤解があるようだーー名前は訂正しようとしたのだけれど。
 蝉玉は名前の手元、蝋燭に照らされた文を指差した。

「でもあなたのそれ、ラブレターよね?」

 ラブレター。恋文。その響きの甘やかさに名前は頬を赤らめた。

「そんな、誤解です」

「なにが誤解よ、あーんな顔しちゃって」

 蝉玉は完全にお節介な友人といった雰囲気で名前を肘でつついた。一気に距離を縮められた、と驚く名前を他所に彼女は楽しそうに笑う。

「白状なさい、おねーさんが相談に乗ったげる!」

「いえ、ですから……」

「ああもう!じれったいわね!」

 蝉玉に腕を引かれた。と思ったら寝台に座らされていた。
 なにがなんだかわからない。
 名前が混乱しているうちに蝉玉は隣に陣取り、その肩を掴んだ。「いい?」鼻先がぶつかるほどの距離で言い聞かせてくる彼女からは妙な気迫さえ感じられた。

「女の子がねぇ、ただの手紙を読むのにあんなデレデレした顔なんてするはずないの」

「デレデレ……」

「そう!あなたってばほんっとーに幸せそうな顔してたんだから!あたしが声かけるまで気づかないって相当よ!!」

 ビシッ!そんな擬音がつきそうなほどの勢い。向けられた人指し指が名前を貫く。
 彼女の目は驚くほど真っ直ぐで濁りない。名前は目を反らせなかった。逆に蝉玉に呑まれていた。彼女の言葉に、視線に。それの意味するところに。
 彼女の瞳の中の己は、覚悟を決めろとばかりに名前を見つめ返していた。

「わたしが、恋をしていると」

「ええ、はっきりとね」

「わたし、」

 逃げられないーーと名前は一度目を閉じた。降参するように、刃を振りかぶられたように。
 そうしても浮かぶのは天化の顔。彼の描いた剣筋。名前を慰めた大きな掌。一瞬触れた温もりは今もつぶさに思い出せる。
 それらに問いかけてから、名前はもう一度蝉玉を見た。彼女の目に映る自分を見つめ返した。
 そこには、名前の知らない自分がいた。

「ーーわたし、天化どののことが好きなんだわ」

 言葉にすると胸が締め付けられた。
 わけもなく泣きたい気分だった。行く宛などないのに今すぐ駆け出したくなった。会いたいと臆面もなく叫びたくなった。あなたが好きだと、言ってしまいたかった。

「でも……言えないわ」

 けれどここに天化はいない。そして彼を困らせることも名前にはできなかった。

「どうして?」

「だって、わたしは周の武官ですもの」

 蝉玉はわからない、と眉根を寄せた。道士であり、殷から周へと移った彼女にはあまり縁のないことだから仕方がない。彼女にとっては愛がすべてであった。ーー名前には、彼女ほど純粋に恋することができなかった。

「例えば武王さまと土行孫どのが崖から落ちそうになっていたら……蝉玉どのは土行孫どのをお助けするでしょう?」

「そりゃ当然よ」

「……わたしは、迷わず武王さまをお助けいたします」

 それが名前と蝉玉の違いであった。
 天化のことは好きだ。これが恋だと名付けることもできよう。
 けれど名前の一番はいつだって主君だった。武王ーー姫発を守るのが名前にとっての当たり前だった。
 だからもしも天化を犠牲にしなくてはならなくなったら、名前は彼を見捨ててでも姫発を救う。
 そんな気持ちの自分が思いを告げられるはずもないと名前は思った。
 なのにそれすら蝉玉は否定する。「わかんないわ、そんなの全然意味わかんない」首を振り、言葉を重ねる。

「だってあたしのパパだってそうするもん。でもだからってあたしのこと愛してないってわけじゃないでしょ?」

 まぁあたしなら助けなんてなくたって自力で這い上がれるけどね、と笑いながら蝉玉は言う。

「一番大切と一番好きが一緒じゃなきゃいけないって決まりはないでしょ?」

「でも、それって不誠実じゃ」

「名前が自分の好きを否定する方が不誠実よ。あなたの好きって気持ちがかわいそうじゃない」

 蝉玉は名前を抱き締めた。「大切にしなさいよ」自分のことを。自分の気持ちを。
 ーーそんなことは考えたこともなかった。
 名前は蝉玉の腕の中で苦笑した。お手上げだ。自分とそう歳は変わらないように見えるけれど、やっぱり蝉玉は道士で、名前よりずっとずっと大人だった。

「蝉玉どの、聞いてくださいますか?」

 ーーわたしの、恋を。