武官、取り繕う


 砦を出た太公望一行の当面の目標は殷の最西端、��水関である。��水関より東は殷の領土となっており、即ちこの関所こそが周と殷の国境なのだ。
 だからそれまでの行程に邪魔が入ることは予想していた。だがまさか国境を越えてもいないのに殷の軍勢とぶつかることになろうとは思いもしなかった。

「武吉!軍旗の文字が読めぬか?」

 太公望の問いに武吉は元気よく返事をすると、目を凝らした。

「冀……州?冀州ですね」

 武吉の言葉に寝ぼけ眼だった黄飛虎の目が覚醒した。

「妲己の親父の旗だ!」

 こりゃいいぜ、と彼は拳を握る。冀州候、蘇護。妲己の父は彼女の重ねる悪行に胸を痛めていたらしい。それはもう、彼女と心中をしかねない勢いだったそうだ。

「ならば説得も可能でしょうか」

「あぁ、まず間違いなくな」

 黄飛虎の自信とは裏腹に太公望の顔は明るくない。名前としても、裏切りかねない蘇護を差し向ける殷の目的が思い浮かばなかった。不安が残るのはだからこそだろう。
 かといって見ているだけでは周の進軍は止められたまま。ここは黄飛虎の言うことに従った方がいいだろう。

「蘇護は妲己を溺愛しているからこそ俺らの味方になる!俺が説得に行ってくらぁ!!」

 そう言った黄飛虎を止めたのは名前でも太公望でもない。
 彼の背後に降り立った大きな影……

「天化!!!」

 黄飛虎の歓喜の声すらどこか遠い。
 名前の目も、耳も、心も、すべて彼に奪われた。天化がいる。今、目の前にいる。それだけしか名前にはわからなかった。それ以外のことは頭から消え去っていた。

「お待たせしたさ!!」

 そう言った天化の目が何かを探すようにさ迷った。
 ーーどうしたのだろう。
 内心首を傾げている間に、彼がこちらを向いた。
 瞬間、その目に自分が映りこんだように思えたのは名前の勘違いだろうか。微かに口許を緩めたように見えたのも。
 ーーどうかしていのはわたしの方だ。
 名前は頭を抱えたくなった。今すぐ誰かに相談したくなった。どうすればいいのか教えてほしかった。なのにこんな時に限って蝉玉は他の兵と共に後方で控えていた。
 名前にはもう考えないように努める以外道がない。気にするな、と自分に言い聞かせることしか。

「傷は治ったのか!?」

「んー、完治じゃねぇけど動けるさ」

 完治していない。その情報は名前を動揺させた。
 なのに、彼は怪我を気にした風もなく黄巾力士から飛び降りる。見ている名前の方がハラハラさせられた。
 痛みはないのだろうか。そう訊ねたい、けれど。
 今の名前では口を開くと余計なことを言ってしまいそうだった。

「親父、敵を説得に行くそうだな……」

 天化は自分も蘇護の説得に向かうと言った。なんでも蘇護には子供の頃に世話になったらしい。
 その話を聞いた天祥までも着いていくと言い始めた。

「名前も来いよ」

 天祥を抱き止めた天化が名前を見る。柔らかな双眸。濡れたような青みがかった黒色は湖のようだった。夜の、星が浮かぶ湖。かつて見た最も美しい景色と似ていると名前は思った。

「……名前?」

 怪訝そうに、(あるいは不安そうに?)天化に問われ、名前は我に返る。

「わたしもご一緒してよろしいのでしょうか……?」

 名前が訊ねたのは黄飛虎にだった。彼と天化は蘇護と古い付き合いがあるらしい。けれど名前はそうではない。邪魔をするつもりはないが、役に立てるとも思えなかった。
 だからおずおずと問いかけたのだが、黄飛虎は常と変わらぬ気負いのない表情で名前の不安を笑い飛ばした。

「なに、連れが多くて困るこたぁねぇよ!」

「……そうそう、親父の言う通りさ!」

 天化は父とよく似た笑顔で名前の頭に手を伸ばした。父とよく似たーーなのに黄飛虎には感じなかった胸の高鳴りを自覚して、名前は咄嗟にその手を避けてしまった。

「ではよろしくお願いします。天祥どのも、」

「うん!楽しみ!!」

 天化から手を離した天祥は、今度は名前の首に手を回した。その体を抱き上げ、ぐるりと回ると名前の手の中で大きな声をあげて笑う。
 名前は意識して天化を見ないようにした。天祥の笑顔に触れることで気持ちを切り替えようとした。そうでもしないと熱が上がり続けてしまいそうだった。
 だから気づかなかった。

「…………、」

 天化が傷ついたように顔を歪めたことに。