武官、月夜の散歩を楽しむ


 夕食を終え、皆が思い思いに過ごしている時。
 名前は一人自分の天幕に引きこもっていた。

「やはりおかしい……」

 手にしているのは積み荷の目録。今ある食材についての一覧表と顔を突き合わせながら名前は唸る。
 ーーどうにも数が合わない。
 戦において食料は兵の士気を左右する。太公望のおかげで周には蓄えが十二分にある。それに楊ゼンの敷いた街道により補給路も確保できた。だから足りなくなるということは滅多なことではないだろう。たとえ想定外に戦が長引いたとしても。
 先の呂岳との戦いで兵の多くが床に臥した。おかげで行軍は足止め、つまり食料も予定より多く消費してしまった。
 ーーそれでも数が合わないのだ。主に、モモの数が。

「なぜモモばかり……数え間違えたのかしら?」

 口に出して、いやそれはないなと己で否定した。名前は自国の兵を信じている。単純な間違いを犯すことも虚偽を申告することもないと。
 そして名前の頭には最初から仙道への疑いなどなかった。ーー太公望がモモをくすねているなんて、少しも思わなかったのだ。

「……まぁ、これで戦に支障がでるわけでもないし」

 考えても埒があかない。それに数字ばかりを読みすぎて目も疲れてきた。
 名前は目録を閉じ、少し考えてから天幕を出ることにした。寝る前に気分転換をしようと思ったのだ。

「……天化どの?」

 外はひんやりとした宵闇で満ちていた。焚かれた炎と天幕から漏れでる灯りだけがちらちらと揺れている。
 そんななか、名前が天幕から顔を出すとすぐ横に黄天化の顔があった。
 名前は驚いた。気配などなかったし、彼が名前の天幕の前にいる理由も思いつかなかった。
 けれど驚いたのは名前だけじゃない。
 天化の方も同じで、名前が声を上げると、びくりと肩を揺らした。

「何か御用でしょうか?」

 驚きに見開かれた目。夜のただ中にあっても煌めきを失わないそれを見上げ、名前は首を傾げた。
 名前の天幕の前にいるのだ。きっと名前に用があるのだろう。たぶん。

「いや、用っつーか、」

 けれど彼は歯切れ悪く答えると、頭を掻いた。その様がまた彼らしくなくて、さらに疑問が増える。
 単に名前の発言が見当違いなら天化もすぐに否定したろう。けれど彼の言葉はそうではなかった。

「あの、用がないなら……少し、散歩でもしませんか」

 言いながら、名前は微かに走る緊張を感じていた。言葉にすることへの躊躇い。それはきっと断られることへの恐れからきているのだと頭の片隅で思う。
 名前の恐れとは裏腹に、天化は目を瞬かせると、闇の中でもわかるほど顔を綻ばせた。

「……俺っちも、そう思ってたとこさ」

「そう、ですか」

 名前はなんと言ったらいいかわからなくなった。前はこんなことなかったのに。今では彼とどんな話をしていたのか思い出せなかった。
 名前には行く宛などなかった。天化も、恐らくは。
 二人は黙りこくったあと、どちらからともなく歩き出した。
 天幕にも篝火にも背を向け、暗がりの中を互いの足取りだけを頼りに歩を進める。
 だから名前が何かに足を引っ掛けたのも当然といえば当然かもしれない。

「大丈夫か?」

 でも転ぶほどではなかった。すぐに体勢を立て直せたし、ほんの少しよろめいただけだった。
 なのに天化は名前の手をとった。支えるように名前の手をすっぽり包み込んだ。
 その温かさが名前の頬までかけ上がる。「ええ、」答える声は上擦っていたろう。でも天化が指摘することはなかった。

「よかった」

 そう言って、また前を向いた。けれどその手は名前のものを掴んだままだった。
 もう大丈夫だ。そう言いかけ、しかし言葉は名前の喉で溶けた。離したくない。頭を占拠したのはそんな我儘だった。
 名前は天化に手を引かれたまま彼を窺い見た。そうすると彼もまた名前を見ていたらしく、視線がぶつかる。慌てて、名前は目を伏せた。

「……冷たいな」

 手、と天化は言った。名前は「夜ですから」と答えた。それはほぼ反射で、頭はほとんど回っていなかった。

「寒くないさ?」

「天化どのこそ」

「俺っちは平気さ」

 そこでようやく天化は笑った。「丈夫にできてるかんな」白い歯が覗く。それを見て、ようやく名前の肩から少し力が抜けた。

「たしかに、温かいですね」

 天化の手。一回り大きなそれは、指先の冷えた名前のものに熱を与えてくれている。
 名前が握り返すと、一瞬その手が強張った。震え。どうしたのかしら、と目線を上げるけれど天化の表情は見えなかった。

「……うん、」

 そう答える天化の口許がもう片方の手で被われてしまっていたから。

「天化どの?」

「……っ、いや、なんでもねぇさ」

 なんでもないようには見えない。でも名前には聞くことができなかった。
 再び二人の間には沈黙が広がった。そしてそれを破ったのはやはり天化だった。

「……ありがとな」

「え?」

「……手紙、」

 嬉しかった、と天化は名前を見ることなく言う。

「そんだけ言いたかったんだけど……。なんつーか、言いにくくて」

 天化は自嘲ぎみに話す。
 夜空を見上げる彼の瞳には今何が映っているのだろう。無性にそれが知りたいと名前は思った。
 思ったから、踏み出した。

「……わたしも、嬉しかった」

 名前は足を止めた。つられて天化も立ち止まり、否が応でも二人の視線は交わる。
 名前は天化を見上げた。彼の後ろにはなにものにも邪魔されない夜空が広がっていた。大小様々な星。大きく浮かぶほの白い月。
 けれどその何より天化の目が一番きれいだと名前は思った。

「嬉しかったんです、本当に。何度も読み返すくらい」

 あなたが、好きですーー。
 そう、言ってしまいたかった。言ってしまえたらどんなに楽だったろう。
 でもまだ名前には覚悟がなかった。だからその熱の塊を飲み下した。今はまだ、このままで。
 甘やかな苦しみを胸に抱えて、名前は天化を見つめた。
 月明かりだけが頼りの闇夜では彼の表情は明らかにならない。

「……よかった」

 でも、そう言った彼の声に安堵が滲んでいるのだけは察しがついた。