武官、楊ゼンにからかわれる
名前が目覚めたとき、辺りには凪いだような静けさが広がっていた。
天幕を出ると名前の体はたちまち冷気に包まれる。早朝特有の静謐な冷たさ。朝日はまだ昇りきっていないらしく、白々とした靄が立ち込めていた。
そんななかにも人の気配はある。見張りの兵と、それからーー
「今日もお早いのですね、楊ゼンどの」
「名前さんも」
名前が挨拶をすると、楊ゼンも柔和な微笑を浮かべて答えた。そこに疲労の色はない。けれど名前は彼が眠っているのを見たことがなかった。そしてたぶん、隊列の誰もが。
「ちゃんと休めていますか?」
楊ゼンの性格からして他人に無防備なところは見せたくないだろう。だから名前たちの知らないところで彼は体を休めているはずだ。
とはいってもあまりに徹底しすぎていて、名前はついついいらぬ世話を焼いてしまう。
楊ゼンはやはり笑って、「大丈夫ですよ」と言った。その言葉からは偽りは感じられない。けれどやはり見えない壁のようなものがあった。
「名前さんは……聞くまでもなさそうですね」
「え?」
「いいことがあったのでしょう?」
顔に書いてあります。
そうからかわれ、名前は咄嗟に頬を押さえた。そんなに……見てわかるほど顔が緩んでいるだろうか。
名前の脳裡に去来したのは昨夜の出来事。彼の手の温もり。見上げた夜空の美しさ。今も、思い出すだけで胸が高鳴った。
「……顔、洗ってきます」
「では僕も」
あなたが来たら意味がないのだけど……。
と思ったけれど、楊ゼンににこりと微笑まれると何も言えなくなってしまうのだった。
二人は少し歩いたところにある川まで出た。
川縁に膝をつき、澄んだ水を掬う。顔を打つ爽やかな冷水。気持ちのよい冷たさに、頭が冴えていくのがわかる。
ふと隣を見ると、同じように屈んだ楊ゼンの髪が一房、水面を撫でているのに気づいた。
「楊ゼンどの、髪が」
失礼、と名前は楊ゼンの背に回った。
そうしても楊ゼンは何も言わなかった。名前が髪に触れても。
名前は手早く楊ゼンの髪を纏めた。そうしながらその髪の繊細さに驚いた。気を抜けば指先から溢れ落ちそうなほどだ。深い蒼色の髪は名前の知らない海を想起させた。
「ありがとうございます」
「いえ」
楊ゼンがやると顔を洗うのも拭うのも何もかもが絵になる。朝靄すらどこか幻想的で、彼のための演出のようだった。
「きれいな髪ですね、どのような手入れをされているのですか?」
「そうですね……、特にこれといったことはないですけど」
「それは……恨まれそうですね」
この時代、女性が成り上がるには権力者の妻となるのが第一だ。それにはまず容貌が整っていなければならない。美しい声も詩の才も後からついてくるものだ。
だから女人はいつだって美しさに拘る。拘らなければ生きていけない。その美を認め、己の存在を認められなければーー生きていないと同じだった。
楊ゼンは男だがその美貌は男女の垣根を越えている。なのに特別なことはしていないなんてーー
「そういう名前さんこそどうなのですか」
「人並みに、ですよ。さすがに楊ゼンどののようにはいきません」
洗沐だって欠かさず行うし、とかすのも象牙の櫛で時間をかけて行っている。手入れに馬油を使うのだって忘れていない。
いくら胡服を着て剣を振り回しているとはいっても、名前は自分が女性であるのを忘れたことはなかった。南家の評判を落とすのは名前とて本意ではない。だから武人としてあればあるほど、女性の嗜みも覚えなければならなかった。
そうしたことすらしていないというのに、楊ゼンを前にすればほとんどの女性は負けを認めざるを得ないのが悲しいところではあるが。
「人並み……ですか。近頃の名前さんはそのようには見受けられなかったのですが」
楊ゼンの話をしていたはずだった。
なのに彼はたった一言で流れを変えてしまう。名前をからかう流れへと。
名前は思わず頬を染めた。今度は隠す暇もなかった。不意をつかれた。どうしようもなかったのだ。
楊ゼンにはお見通しだった。鮮やかな刺繍の帯を巻いているのも、小さな花の髪飾りをしているのも。派手ではない、というより誰も気づかなかったほどの些細な装いの変化を、楊ゼンは指摘した。
彼にはわかっているのだ。その変化がほんの最近のことーー天化が帰還してからだということに。
「……近頃の楊ゼンどのはいささか意地悪になったように思います」
「ははは、気のせいですよ」
名前は横目でじとりと見た。けれど楊ゼンには歯牙にもかけられず、すっとぼけられてしまった。
敵わないーー出会ったばかりの頃の名前の直感は正しかったのだと痛感する。
「……楊ゼンどのに相談しようかと思っていましたが……やめておきます」
「相談?」
膝を払い、腰を上げる。追いかけるように同じ動作をした楊ゼンは、すっと名前に目線を落とした。
目の前でさやかに流れる小川のごとき静かな目。澄んだ瞳から目をそらして、名前は答えた。
「はい。でももういいです。太公望どのを頼りますから」
「それは心外です。師叔にできるなら僕にもできるはずですよ」
「でも楊ゼンどのはからかうじゃないですか」
大人げないことを言っている。これは子供じみた真似だ。
頭ではわかっていても、いじけた心は言うことをきかない。名前はむくれながら、楊ゼンをじとりと見上げた。
楊ゼンはそれにもそっと笑んで、「さすがに相談事を笑ったりしませんよ」と穏やかに言う。
「……本当ですか?」
「約束します」
これも、嘘ではない。
彼の目を見れば明らかだった。何より、楊ゼンを信じたいと思った。そうだ、名前は信じている。彼が真剣な場でそのようなことをする人ではないと。信じているし、わかってもいる。
「……実は、」
歩きながら名前は話した。昨晩気づいたこと。モモの数が合わない。そんな小さな気がかりを。
「大したことじゃあないとわかってはいるのですが、」答えのない疑問というのはどうにも具合が悪い。喉に小骨が引っ掛かったようで、これを解決しないと気が済みそうになかった。
楊ゼンは「モモ、ですか」と意味深に呟くと、不安に彩られた名前の顔に笑みをやった。
「それは名前さんが心配することではありません。大丈夫、すぐに解決しますよ」
「まさか今の話だけでわかったのですか?」
「ええ、まぁ」
楊ゼンは「僕が解決してみせましょう」と名前に約束した。今日中、むしろ今すぐに片付けてみせると。
そして名前は知ることになる。
他でもない、周の軍師がモモを盗み出していたという事実を。
「まさか太公望どのがそんな……」
「すみません、師叔はこういう人なんです」
現行犯で捕らえられた太公望。どこから取り出したのか、楊ゼンの縄で縛り上げられた彼は口まで塞がれ暴れている。地で跳ねる様は、まな板の上の魚のようであった。
「情けないっス、ご主人……」
涙を浮かべる四不象に、名前の胸は痛む。
名前は膝を下り、太公望の肩に手を置いた。
「もうこんなことはなさらないでください。モモくらい、言ってくださればご用意いたしますから……」
太公望の目が輝く。同時に、何事か声を上げたようだが、布に阻まれ何を言っているかわからない。
でもこれで無事解決だ。
犯人がわかったことですっきりした名前の後ろで、楊ゼンはため息を吐いた。
「名前さんは師叔に甘すぎですよ……」
余計なことを言うな、と太公望はすかさず楊ゼンを睨んだ。