武官、ナタクに構う


 意識を取り戻したナタクの目はまず現状を把握するために動かされた。それから自分が天幕にいること、そして傍らに名前がいることを認めると、微かに顔をしかめた。

「って、何でそんな顔をなさるのですか」

「……うるさい」

 絶対零度。しかしその冷たさにも慣れてしまった。というより、名前はナタクの本気を知っている。彼の本当の力を。ナタクが心から名前を邪魔に思っているなら、今頃名前はここにいないだろう。
 つまるところ、ナタクとの距離は縮められる余地があるというわけだ。
 逃げられたら追いかければいい。蝉玉の教えに従い、名前はナタクの肩を掴んだ。起き上がり、そのまま寝台から抜け出ようとした彼の肩を。

「安静にしてください、ね?」

「……もう起きられる」

 平気だ、とナタクは言う。
 確かにナタクの体には目立った外傷はなかった。あれほどの爆発に巻き込まれたにも関わらず、だ。気絶していたのも爆発が原因というより、それに紛れて楊ゼンが昏倒させただけらしい。
 だからナタクの言葉に嘘はない。けれど名前は彼を逃がすつもりはなかった。

「ならばわたしの話を聞くこともできますね?」

「…………」

「ナタクどの、」

 ぷい、とナタクが顔を背ける。その仕草に、名前は眉を下げた。ナタクの小さな子供のような反応。それが可愛らしくもあり、しかしだからといって野放しにもできず、名前は溜め息まじりの微笑を浮かべた。

「別にナタクどののやり方を怒っているわけではないのですよ。殿方に怪我は付き物ですし、わたしも人のことは言えませんし」

 名前はナタクの手をとった。
 名前より少しだけ大きな手のひら。宝貝の外されたそれは、ただの人と変わらない温もりがあった。
 この手もやはり守るべきものだ。なくしたくない、と名前は思った。

「ただ、場所は弁えてください。ナタクどのだって寝るところがないと困るでしょう?」

「オレは困らない」

「ナタクどの」

 そういう話ではない。
 宿営地が傷つくのももちろん心配だ。けれど一番の気がかりは、ナタクの行動により彼自身が隊列から疎まれることだった。
 誰も彼もがナタクの事情を知っているわけではないし、彼を理解しようとするわけでもない。それを強いることも名前にはできなかった。
 だからせめて、と名前は思う。ナタクにとってこの地が心休まる場であれば、と。いさかいもわだかまりもない、平穏な空間であればと願わずにはいられなかった。
 そんな思いが通じたのか。名前が眼差しをきつくすると、ナタクの目線が落ちた。

「…………考えておく」

「もう、」

 そうは言っているが、名前の表情は穏やかだった。自分でも不思議なことに、ナタクの反応が可愛らしくてしようがなかった。
 末の弟が名前の手を離れてしまったから、その代わりをナタクに求めているのだろうか。けれどそれは近いようで、正答ではないように思えた。名前の弟たちはここまで反抗的ではなかったし、ここまで無鉄砲でもなかった。
 だからこそ余計に気にかかってしまうのか。それこそ、母親のように。

「あんまり無茶ばかりなさっているとご母堂も心労が絶えないわ。子の変化というものに母は敏感ですもの、離れていたってわかってしまうでしょう」

 そんなことを考えていたから、名前からはこんな言葉が発せられた。
 名前自身も母にはたくさん心配をかけたという自覚がある。女なのに武人など、と母が顔を曇らせたのは名前を思っていたからこそであった。それがわかっていて、それでも名前はこの道を選んだ。父や兄や敬愛する主君と共に戦場を駆ける道を。
 きっと今頃は名前の母も気を揉んでいることだろう。遠く離れた豊邑の空の下、名前の中ではもう懐かしいものとなってしまった屋敷で。家族の無事を祈っているに違いない。
 そしてそれはナタクの母も同じだ。彼の母が情に厚いということは、太公望から聞いたナタクとの出会いの話からも伺えた。
 だから名前はナタクにも無茶をしてほしくない。
 そう思いながら、名前はナタクの頬を手巾で拭った。
 爆風に巻き込まれた彼の体は煤で汚れていた。後で水浴びをさせないとーー彼は自分のことには無頓着だから、なおのこと名前は己の使命に燃える。名前にとってナタクは仙道というより、人様から預かった子供という感覚だった。
 名前にされるがままのナタクは何やら考えを巡らせているらしい。「母親……」と呟くと、名前の顔を真っ直ぐ見つめた。

「お前は……」

「はい?」

「……いや、なんでもない」

 ナタクは口をつぐんでしまった。
 こうなった彼から続きを聞き出すことはできないだろう。気にはなるが、仕方ない。
 名前は水を飲ませると、後で食事を持ってくることを約束した。

「今日はおとなしくしているのですよ?」

 ナタクは何も言わなかったが、小さく顎を引いたように見えた。これは大きな進歩だ。名前は嬉しくなって彼の頭を撫でた。もちろんそれはすぐに振り払われてしまったが。
 軽やかな足取りで天幕を出た名前だったが、そこに天化がいるのを見つけると途端に目を丸くした。

「待っていてくれたんですか?」

 ナタクを運び込んだあと、彼は中に入ることをしなかった。だからてっきり稽古に戻ったとばかり名前は思っていた。
 天化は「まぁ、」と頭を掻いた。
 それは申し訳ないことをした。彼が待っていた時間を瞬時に計算し、名前は頭を下げる。

「それは……お待たせいたしました」

「いや、俺っちが勝手に待ってただけさ」

 天化は慌てたように言うと、名前の手をとった。戻ろう、と彼に引き寄せられ、名前も足を踏み出した。
 名前がナタクの世話を焼いている間に武王や周公旦らも合流したらしい。さらに賑やかになるなと言った天化の顔は楽しそうなものだった。それを見ると名前の心まで弾む。
 「思ったけど、」と切り出した天化は、ちらりと後ろに視線をやった。後ろ、ナタクの天幕へと。

「名前っていい母親になりそうさ」

 突拍子もない言葉に名前は首を捻った。

「そうですか?」

 褒められているのだろうけど、あいにくと名前にはそんな予定はない。いや、妲己がいなかったら今頃はそうだったかもしれないが、そんな未来はとうになくなってしまった。それはほんの少しの寂しさと、離別の悲しみを名前にもたらした。
 もう乗り越えたと思っていたのだけれどーー内心苦笑する名前に気づかず、天化は「そうさ」と笑った。

「なんたってあの宝貝人間を手懐けるんだから」

「わたしが勝手に構っているだけですよ」

「でもそれを良しとしてるんだから相当さ」

 天化から見ても名前がナタクに受け入れられている。
 それは喜ばしいことなのだけれど、思い至ってしまった理由に名前は胸を押さえた。
 もしかすると名前は叶わなかった未来をナタクに構うことで紛らわしているのかもしれない。
 それは空しいことだ。わかっている。けれど、だとしても名前には改めることはできそうになかった。
 彼を好ましいと思っているのもまた事実なのだから。