武官、戦に出る


 ��水関を前にして、周は殷の軍勢と戦うことになった。既に戦場となる平地には陣が布かれ、戦の前の独特の緊張感が場を支配している。
 周の手勢は5万。対して殷側の兵はそれよりも多く見えた。さすがは太子。一度出奔してもその威光は変わらぬらしい。

「名前さま、準備が整いました」

「……そうか」

 部下からの報告は逃れようもない戦の始まりを告げていた。
 名前は戦が嫌いだ。そう言っても、西岐の殆どの者が信じないだろう。名前はいつだって顔色を変えずに人を斬ってきた。
 そうしなければ生きていけないからだ。生きる上で戦いからは逃れられない。そして名前は多くの命を預かる立場にある。冷静でいなければ彼らを守ることもできなかった。
 だから名前は散っていく命にどれほど胸を痛めようと心を押さえつけることにした。感情を殺し、表情を殺し。今もまた、暗鬱とした心をちらりとも見せずに、静かに前を見据えた。

「わたしも報告に行ってくる。それまではここを頼んだ」

「はい」

 名前は後方ーー仙道や武王の集まる場へと下がった。
 報告をすると、楊ゼンは「あとは師叔だけですね……」と物憂げに呟いた。
 3日前、仙人界へと一時帰還した太公望。彼は開戦までには帰るから心配ないと言っていた。
 だが未だ太公望の姿は影も見えない。彼の指示通りに陣を布くまではしたが、これからどうすればよいのか。策は予め授けられているが、やはり軍師がいないと締まらない。

「太公望どのが嘘を吐くとは思えません。きっと間に合ってくれます」

「その期待が裏切られなければよいのですが……」

 楊ゼンはやれやれと額を押さえる。
 そんな彼と別れ、名前はさらに歩を進めた。ーー天化の元へと。

「天化どのは銅鑼の係なのですね」

「まぁな。俺っちとしては後ろに控えてんのは性に合わねぇけど、師叔が言うからしょうがねぇさ」

 そこで天化は眉をひそめた。

「……大丈夫か?」

 顔を覗き込まれ、名前は逃げられない。
 天化の真っ直ぐな目。それは名前の仮面を容易く剥いでいく。

「……少し、」

 名前は苦笑した。苦しい、と名前は思う。これから失われる命。奪う命。彼らの生。彼らの営み。背負う命の重さに、名前はまだ慣れないでいた。
 この戦いでは必ず命を落とす者がいる。それは名前にとって親しい者かもしれないし、そうでない者かもしれない。それでも名前は馬を進める。それしか道はないのだから。
 そんな名前の頭を、天化は優しく撫でた。その流れに身を任せると、ささくれだった心が凪いでいくのがわかる。

「ありがとうございます」

 今の名前には、百の言葉よりも有難いものだった。ただ寄り添ってくれる。それがどんなに名前を落ち着かせてくれたか。
 天化は「俺っちは変わってやれねぇから」と困ったような顔をした。それに首を振って、名前は彼の手をとった。

「十分です。……これでわたしはわたしの役割を果たせる」

「名前?」

「天化どの、」

 疑念を浮かべた天化を制し、名前は彼を見つめた。
 いとおしい、と思う。星のような眼差しも、欲しい言葉をくれる声も、固い手のひらも。彼のすべてに恋をしているのだと名前は思う。そしてその事実に名前は安堵していた。
 恋をすることができてよかった。この感情を知ることができてよかった、と。
 名前は息を吸った。

「ーーこれを、あなたに」

 名前が天化の手首に結んだのは柳の枝。旅立つ人の無事を祈る風習。それになぞらえて、名前は柳を糸のように束ねて環にした。

「戦に赴くわたしから贈るのも変な話ですけど」

 名前は笑って、天化の手を握る。

「ーーあなたの無事を、祈っています」

 たとえ名前がここで命を落としたとしても。
 その先の戦いで天化が無事であるように。
 そう願って柳を編んだのは、この地での戦が決まった後だった。
 気づいてしまったのだ。名前は人で、天化は仙道。二人ともが同じ戦に出られるわけじゃない。ーーここで、名前は死ぬかもしれない。
 だからといって思いを告げるつもりはなかった。それはひどく自分勝手であると思ったし、優しい彼に傷を残したいわけでもなかった。けれど何もせずにもいられなかった。
 名前の考えていることが伝わってしまったのか。天化の顔が強ばった。するりと離れていこうとした手が捕まれ、引き寄せられる。

「ーー名前も」

 生きろ、と彼の目は雄弁に語る。
 それだけで名前の胸は熱くなった。視界が滲み、喉はひきつる。それを堪えようと噛んだ唇さえ震え、名前には手を握り返すことしかできない。
 それでも天化には通じた。彼は手をほどき、名前の背を叩く。待ってる。そう言って。
 だから名前は生きなければならない。彼がそう願ってくれたから。名前もそう、願ってしまったから。

「……行って参ります」

「あぁ、」

 馬に乗る。前方の殷軍は既に歩みを始めている。戦いは始まった。
 太公望の号令がかかる。前進。それを受けて、名前も駆ける。前へ、前へ。
 遠くで兵が弓を引くのが見えた。

「……頭を下げろ!」

 次の瞬間、矢が雨のように降り注いだ。
 名前の隣にいた者の口から呻き声が上がる。射られたのだ。穿たれた体は力を失い視界から消えていく。主を失った馬は方向を見失い、やがて矢を受け、もがきながら倒れていった。
 それでも名前は動じない。動じてはいけない。奥歯を噛み締め、地に消えていく兵から意識を離した。前へ、前へ。進まなくては。
 辿り着いた先にも安息はない。立ち塞がる殷の兵。盾を持った兵を彼の槍ごと切り捨てる。血飛沫。それは殷のものだけではない。目の前で周の兵が一人切り伏せられた。絶叫。誰のものともわからない血を浴びて、名前は駆ける。
 痛みはすべて、剣を握る手に込められた。