武官、太公望の苦しみを思う
��水関での戦いは周の勝利に終わった。けれど手放しで喜ぶことはできない。この戦いは殷の二太子を筆頭に、少なくない犠牲を払うことで終結したのだから。
だから太公望の憂いはわかる。理解している。共感もできる。でも、それでも名前はーー
「師叔が心配ですか?」
すっ、と隣に立った楊ゼンが問う。
再び朝歌への進軍を始めた隊列は、束の間の休息をとっていた。皆が思い思いに体を休めるなか、太公望はひとり岩場に身を横たえていた。その姿は何者をも拒むかのようだった。
名前はそっと楊ゼンに笑んだ。「あなたこそ」太公望を案じているのでは、と名前は訊ね返した。
楊ゼンはこの戦いが始まる前から気にかけていた。犠牲は最小限に。そう願っていた太公望だが、この戦いでは多くの人が命を落とした。他ならぬ太公望の策によって。
そして彼はかつて己が救った太子をもその手で封神することになった。その傷は、名前には想像することしかできない。
楊ゼンは「そうですね」と曖昧に微笑んだ。
「でも師叔なら大丈夫でしょう」
「……わたしも」
同じだ。
名前も太公望なら立ち直れると思っている。そういう人だと知っている。でも、だからこそ名前の心は沈む。
太公望はいまだ動かない。岩場に身を横たえたまま何を見ているのだろう。何を、考えているのだろう。
「なんて、無力なのかしら」その影に目を馳せていると、知らず、言葉が溢れた。堪えきれなかった。名前の、心が。
「ひとりで抱え込まないでほしい、そうは思っていても、わたしには何もできません」
だって。
「わたしは、周の武官ですもの」
名前は笑った。寂しさと悲しみがそこにはあった。
太公望の力になりたい。それは真実で、けれど名前が彼になれないのもまた事実だ。どうあがいたって彼と心を重ねることができない。
だって、名前は西岐の人間だ。年若い太子の死を悲しいとは思う。でも、それだけだ。名前の中では周の民を喪ったことの方がずっとつらかった。
「名前しか知らない太子より、わたしは隣で死んでいった朋友を悼んでしまう。それは覆せない。覆してはならない。だから、わたしには」
ーー太公望へかける言葉がない。
無力感。名前にはただ見ていることしかできない。太公望がひとりで立ち直るのを待つしかない。それは彼に何もかもを押しつけているようでーー悔しさと申し訳なさに押し潰されそうだ。
だからーーだろうか。つまらぬことを楊ゼンに聞かせてしまったのは。
「ごめんなさい、変なことを言ってしまって」
今度の笑みは誤魔化すためのものだった。楊ゼンが何も言わずにいてくれたからつい話してしまったけれど、言っても栓のないことだと遅まきながら気づいたのだ。どうも彼相手には余計なことばかり言ってしまう。彼の持つ年長者特有の空気に名前は弱いらしい。
恥じらい笑う名前であったが、楊ゼンはその姿にすら目元を和らげた。
「僕も同じです」
そう言って。
岩場を撫でる風がひゅぅと鳴いた。岩棚は隊列のざわめきを跳ね返していた。
けれどそのいずれもが名前には遠いものだった。名前の意識は楊ゼンの緑がかった青色の瞳に吸い込まれていた。
「僕も師叔にかける言葉を持たない。僕は僕でしかないから」
「楊ゼンどのも?」
「ええ、だって僕はもう諦めてしまっていますから」
あなたもでしょう、と楊ゼンは静かな声音で言った。名前も戦で生まれる犠牲を受け入れてしまっている、と。
その通りだった。太公望のように一人も殺さずーーなんて夢はとうになくしてしまった。名前には夢を持ち続ける強さも叶える力もなかったから。
そう考え、名前は感嘆の溜め息を吐いた。
「……太公望どのはすごいですね」
「ええ、本当に」
けれどそういう人がいないと民は着いてこないのだとも思う。太公望がそういう人だからこそ皆彼の元に集うのだろう。名前も、楊ゼンも。
「僕たちにできるのはその夢が果たされるよう手助けをするくらいです」
「……そうですね」
たとえそれがどれほど歯痒くとも。太公望は太公望でしかなく、また名前も名前でしかない。だから名前は自分にできることをするしかないのだ。
「でもやっぱり悔しいです」
太公望を見つめ、名前は口を尖らせた。頭で理解することと感情が受け入れるかはまた別の話。わかっていても、悔しいものは悔しい。
名前の子供じみた反応に、楊ゼンは声を上げて笑った。
「師叔を喜ばせるなんてあなたには容易いでしょうに。たとえばそう、おいしい甘味を用意するだとか」
悪戯っぽく片目を瞑る楊ゼン。それを受け、名前はぱっと目を輝かせた。
「すぐにご用意いたします!」
駆け出した名前の背中を見送り、やれやれと楊ゼンは肩を竦めた。
「これだけ慕われるなんて師叔は幸せ者ですね」
独り言を岩場に残し、楊ゼンも身を翻す。急いだ様子で準備に取り掛かる名前の元には、複雑な顔をした天化がいることだろう。
何やら話し込んでいるらしい二人をからかおうと、楊ゼンは足を進めた。