武官、川を渡る


 行軍の間も季節は平等に移り変わる。
 この頃には日差しが目に沁みるようになり、真昼の間は足を止めることもあった。それでも西域の夏よりは余程過ごしやすい。陽光も幾分か和らぎ、砂塵に視界を奪われることもない。それでも厚手のマントを手放すことはできなかったが。

「あたしはもうダメ……」

 今日の夜営地について楊ゼンと話していると、ふらりと蝉玉がやってきた。
 かと思うと名前の肩に凭れ掛かり、力ない声で弱音を吐く。

「どうなさったの?」

 その手をとり、穏やかに訊ねる。と、蝉玉はひし、と抱きついてきた。それまでの弱りきった様子が嘘のように。

「ハニーが抱き締めさせてくれないの!!暑いからって!!!」

 わっと名前の肩に顔を埋める蝉玉。その頭を撫でながら、名前はどうしたものかと考えた。
 蝉玉の願いは叶えてやりたい。けれど、この暑さをどうにかする力が名前にはなかった。土行孫を説得する術も。
 対して楊ゼンは呆れた様子だった。「なんだそんなことか……」呟いた彼は土行孫がさっさと諦めてしまえばいいと考えているらしい。
 「土行孫くんをふん縛ってしまえばよいのでは?」などと物騒な提案をした。
 しかし蝉玉は首を振る。

「そうしたのに朝にはいなくなってたのよ……」

 縄を噛み千切り、地面の下へと逃れたらしい。
 まさか既に実行済みだとは。驚きながらも、名前は蝉玉を羨ましく思った。
 彼女ほど真っ直ぐに恋をする人を名前は知らない。だから眩しくてーー羨ましい。
 そしてそんな彼女だからこそ名前は力を貸したいと思ってしまうのだ。

「このまま進めば、明日には川に行き当たる予定です。幸い渡れぬこともないでしょうから……」

「その隙にハニーを捕まえればいいのね!?」

「ええ、川ならば逃げられる心配も少ないでしょうし、それに暑さを理由にもできないでしょう?」

「そうね!!あたし頑張るわ!ありがとっ!!」

 蝉玉は嵐のように去っていく。けれどそれすらも名前にとっては心地よい涼風のようなものだった。

「ずいぶんなつかれましたね」

「それはちょっと違います。だってなついているのはわたしの方ですもの」

 名前は微笑んだ。
 �ケ蝉玉。名前に恋を教えてくれた人。恩人。そんな彼女を好きにならないはずがなかった。
 だから蝉玉も名前に心を開いてくれたのが嬉しい。正確には違うが、同年代の娘との会話は名前に思いもがけない楽しみをもたらした。恋の話。美容の話。これまでの名前には縁遠かったものを蝉玉は与えてくれる。
 名前の言葉に、楊ゼンも微笑を返した。

「あなた方が仲睦まじくしていると兵の雰囲気もよくなります。なにせここには華がありませんから」

 楊ゼンは笑ったまま続けた。

「そのためには土行孫くんには犠牲になってもらいましょう」

「ええ、そうですね」

 名前にはもう迷いはなかった。蝉玉の味方をする。そう決めてしまったから。
 だから土行孫には悪いがさっさと諦めてもらいたい。蝉玉ほど器量の良い娘子に想われているのだから、ありがたく受け入れるべきだとすら最近では思うようになってしまっていた。

 明くる日、予定通りに進んだ隊列は大きな川にぶつかった。
 とはいえ浅瀬ならば馬を牽いても問題なく渡れそうな深さだ。このあとすぐに天幕を張って体を休めれば支障はないだろう。
 そう考え、隊列は川に足を踏み入れた。
 川の流れは見た目よりも速かった。しかし一月先のことを考えれば今でよかったと思う。雨季と重なってしまえば、水嵩も増し、川は今よりずっと荒れていたろう。
 半ばほど渡った頃だろうか。名前の前を進んでいた馬が、ガクリと傾いだ。水底の石に足をとられたかーーそう頭の隅で考えながら、名前の体は反射的に動いていた。

「お怪我はありませんか」

 体勢を崩した馬から投げ出された小さな体。黄天祥を水面すれすれで抱き止めると、名前は少年を気遣った。
 天祥は何が起こったかわかっていないらしい。彼は大きな目を瞬かせていた。それでも名前の腕の中なのを知るやいなや「ありがとう」と笑った。
 そんな彼を黄飛虎に引き渡し、天祥の乗っていた馬は手の空いている者に頼むことにした。
 天祥が子供であることから、水に濡れないよう馬に乗せていたのが逆に仇となった。黄飛虎の引く馬に天祥を乗せる、最初からこうするべきだった。いかに天祥が優れた乗り手であるといってもそれでもまだ幼い子供なのだ。
 一人にさせたのは不味かったーー自省する名前の横に、人影が並んだ。

「ありがとな」

 それは後ろにいたはずの天化だった。
 彼は名前と並ぶと、馬を牽いていない方の手で頭を撫でてきた。それがむず痒くて面映ゆくてーー「いえ、」名前は言葉少なに顎を引く。
 こんなことを考えている場合ではない。いかに川が穏やかでも水嵩が膝までしかなくとも、それでも流れに足をとられれば人など容易く呑まれてしまう。
 わかっているのに、隣に天化がいるというだけで浮き足立つ心を抑えることができなかった。
 だからこそ蝉玉の積極性が眩しい。後方にいるはずの彼女は今頃どうしているだろう。うまいこと土行孫を捕らえることはできたろうか。
 名前は思考することで意識を反らしていた。なのにそれすら天化は許してくれない。
 彼は名前の頭から手を離すと、今度はその手を握ったのだ。

「天化どの?」

「こうしとけば安心さ」

 天化により持ち上げられた名前の手。ニッと笑う彼に、名前は何も言えない。自分の身は自分で守れるだとか、わたしより天祥どのをだとか。そういった台詞が心には浮かんでいるのに、喉を通ることはなかった。
 天化は気にした風もなく、 「師叔たちはいいよな」と空を見やった。そこには四不象に乗った太公望と哮天犬に乗った楊ゼンがいた。

「一人くらいなら乗せてもらえるのでは?」

「うーん、確かにそうかもしんねぇけど」

 天化の目が名前に移る。澄んだ水面よりも清廉な瞳。水の清らかさと日差しの眩さを閉じ込めたみたいだと名前は思う。そんな目がゆるりと笑みを形作った。
 「それはいいさ」彼は繋いだ手を一瞥して、続ける。

「空にいたんじゃ名前の手も引けないしな」

 それは、どういう意味だろう。
 危なっかしいということだろうか。それとも……と考えようとしたが、名前の思考はすっかりふやけてしまっていた。仮に正常だったとしても答えが出せたかは極めて怪しいが。

「わたしだって天化どのの手を引けます」

 それでもこんな的外れな返事をすることはなかったろう。
 言ってから、なぜ対抗するようなことを、と自分で自分に驚いた。それから、失敗したとほぞを噛んだ。もっと適切な言葉があったんじゃないか。そう思えてならなかった。
 でも。

「そうだな」

 と言って、天化が笑みを深めるのを見るとーー途端にすべてがどうでもよくなってしまうのだから、恋とは恐ろしいものだ。