姫発、武官の変化に気づく


 照りつける陽光に地表は燃え、時折吹く風も熱を帯びている正午過ぎ。
 隊列は足を止め、木陰で束の間の休息をとっていた。
 豊邑を出た頃の過ごしやすい気候はとうに過去のものとなり、隊列には疲れが滲む。そんななかでも名前は忙しなく働いていた。暑さなど感じないといった風に長袍の裾を翻して。

「さ、武王さま、足を」

「おう」

 水を張った木桶を姫発の足元に置く。

「あ〜、生き返る」

 足を浸した姫発は、若者らしくない声を出した。
 それも致し方ないことだ。姫発にとってこれほどの行軍は初めての経験なのだから。

「お疲れさまです」

 名前は笑い、姫発の足元で膝を折った。たくしあげられた姫発の足。汚れと疲れを落とすべく、名前は両手を添えた。
 敷布の上で寛ぐ姫発は跪く名前を見下ろす。周りの者は見慣れた光景に注意を払っていない。誰も、二人に目を向けていない。
 姫発からは名前の旋毛がよく見えた。そこから連なる艶やかな黒髪も。伏し目がちな顔も。
 瞳を縁取る長い睫毛。木漏れ日の差すそれは、朝露に濡れているように輝いていた。

「名前、」

「はい?」

 姫発の呼び掛けに、名前は応える。なんの警戒もなく。姫発を信じきった目で、見上げてくる。
 それに感じるのは歓喜だろうか。それとも落胆だろうか。
 どちらも選べない姫発には、薔薇色の唇の柔らかさを想像することしかできない。

「……ありがとな」

 代わりに、名前の頬に手を滑らせた。この日差しの中でも不思議と白い少女の肌。ミルクを溶かしたみたいなそれは、姫発の手にするりと収まった。
 名前は一度目を瞬かせると、すぐに相好を崩す。

「こちらこそ」

 嬉しい、と一面に描かれた顔。臆面もなく露になる少女の心の機微。それがいとおしくもあり、ーー憎らしくもある。

「何やってるんさ、名前。あーたも休まねぇと体がもたねぇさ」

「大丈夫ですよ、天化どの」

 ーー今は、特に。
 ふらりと現れた男。黄天化。黄飛虎の次男坊。崑崙山の道士。ーー名前を浚う男。
 彼は水の入った器を二つ手にしていた。一つは名前に、もう一つは姫発に。

「ほい、王サマも」

「……あぁ、」

「わざわざありがとうございます」

「ついでさ、ついで」

 天化はからりとした笑顔を浮かべる。それに答える名前も、また。
 悪い男ではないーーそれは、姫発とてわかっている。一度は彼に助けられた身。その点においては恩義を感じている。
 けれど、それとこれとは別だ。

「いいだろ、別に。名前が好きでやってんだから。な?」

 姫発はわざとらしく名前の肩に腕を回した。鼻先を掠める香り。果実のような甘やかさを纏いながら、名前は「ええ」と首肯した。

「こいつは世話焼きだからな、なんかしてねぇと落ち着かないんだよ」

 そんなことも知らないのか。
 湧き出たのは優越感。名前と過ごした時の長さだけはどうあっても奪えやしない。
 けれどそれはすぐに空しさへと変わる。過去は変わらない。でも、だからってなんの価値があるというのだろう。名前と共にある未来を、姫発は手に入れられないというのに。
 姫発の言葉に、天化は微かに眉をひそめた。

「そうは言ってもなぁ……」

 彼の不満が姫発には伝わってくる。
 姫発の胸に収まる名前。彼女の肩を抱く手に、天化は一瞬目をやっただけだった。でもそれは意識しているからこそだと姫発にはわかった。わざと見ないようにしているのだ、と。
 ーーまだ、望みはある。
 名前の気持ちが天化に向いているのには気づいていた。決定的になったのは行軍に合流してからだ。
 名前は、今まで見たことのない目で天化を見つめていた。
 天化は気づいていないだろう。でも名前と共に生きてきた姫発にはすぐにわかった。彼女の帯が繊細な刺繍の施されたものに変わったこと。彼女の髪留めが控え目ながらも少女らしいものに変わったこと。どれもこれも、姫発には気づくことができた。天化は気づかないのに。姫発には、名前の心境の変化が手に取るようにわかってしまった。
 伯邑考との婚姻が持ち上がった時だってこれほど胸が痛むことはなかった。お互いに憎からず思っていたとしても、根底には西岐の安定があったからだ。
 今の名前には、それがない。
 それでも姫発は諦められない。諦めたくない。手が届くかもしれない。そう、思ってしまったから。

「わかったわかった。ちゃんと名前も休ませるって」

「王サマ?」

 姫発に向けられる不思議そうな目。それを挑戦的に見返し、姫発は名前を抱く手に力を籠める。驚いた様子の彼女に構わず、言葉を続ける。

「要は俺ばっかりってのがダメなんだろ?なら名前の足は俺が洗えば問題ねぇな」

「はぁ!?」

 天化のすっとんきょうな声。それを無視し名前から靴を引き抜こうとすると、さすがの彼女も「待ってください」と制止の声を上げた。

「なんだよ、いいだろ?俺らは身内みたいなもんだし」

「だ、駄目に決まってるでしょう!?」

 姫発の行動にはさすがの名前も頬を赤らめた。それもそうだ。普通、女性が異性に素足を見せることはない。見せるとすれば身内ーーつまりは夫である男くらいなものだ。
 それをわかっていて姫発は笑いながら手を伸ばした。蛮行に慌てふためく名前の思考では天化の存在は薄らいでいた。彼女のぬばたまの瞳には姫発の楽しげな顔しか映っていなかった。
 ーーそうだ、まだ希望はある。

「何やってるさ王サマ!」

 天化に羽交い締めにされながら思う。
 名前が自分から思いを告げることはないだろう。彼女の性格からいって、この戦いが終わるまでは絶対に。
 ならば姫発は賭けるしかない。名前の心変わりを。名前が、姫発を求めてくれるように。
 姫発の手から逃れ、衣服の裾を引っ張って足を隠そうとする名前。その頬に灯るのは夏の暑さではない。それは姫発を異性として見てくれている証拠だ。一応は、というのがなんとも切ないところだが。

「わかったわかった、やめとくよ」

「信用ならねぇさ……」

「いやマジだって」

 そこまで言って、天化はようやく手を離した。それでもその目には疑いが残っている。
 ……そんな目で見るくらいなら、さっさと奪い去ってしまえばいいのに。

「なんだ、まだ照れてんのか?可愛い奴め」

「か、可愛いとはなんですか!?」

 未だ熱の引かない名前をからかう。その頭をかき回しても名前が抵抗することはない。ただ恥じらいの浮かぶ声を上げるだけだ。
 天化の視線を感じながら、姫発は名前に触れる。「悪い悪い」そう言いながら、自分が乱した髪を整える。
 そしてその豊かな黒髪を、紅玉があしらわれた髪留めで纏めた。元から身につけていたものは、彼女の手に突き返して。

「武王さま?」

「こっちの方が似合ってる」

「そう……ですか?」

 名前からは自分の結い上げられた髪が見えない。触れようとして、けれど崩すのを惜しんで、名前は小首を傾げる。
 その頭で、紅玉が揺れる。思った通りだ。思った通り、名前の髪には紅が映える。

「でも、あの、頂き物なんて」

「いーんだよ、それともなんだ?俺にそれ付けろって?」

「いえ……」

 名前は、逡巡の後に頷いた。ありがとうございます。姫発の想いを纏ったまま、微笑んだ。
 このまま、名前を染めていきたい。姫発ではない誰かのための髪留めも、帯も、装束も。
 それは姫発にしかできないことだ。名前の変化に気づかぬ天化には、絶対にできっこない。
 唇を噛む天化を、名前の肩越しに見る。その姿に、ほんの少しだけ胸がすく思いがした。