踊る人形


 小さな喫茶店の中ではレトロな音楽が流れていた。それ以外には客が時折たてる笑い声くらいしか聞こえてこない。
 そんな中で、名前はひとり珈琲を飲んでいた。手元にはノートパソコン。仕事をしているといった風で、しかしその実名前の意識は斜め前方、テーブル席に座る一組の男女に向けられていた。
 そして女性の方が立ち去るのを見届けた後で、名前は席を立った。それまで彼女が座っていた場所に腰を下ろし、向かいの男ーー安室透を見やる。

「どうだった?」

「手筈通りに」

 透の顔に安堵はない。成功するのが当たり前だと確信している顔。彼は自信たっぷりの表情のまま飲みかけの珈琲を手に取った。

「名前のお陰だよ。こんなに上手く彼女と接触できたのは」

「私がやったことなんて大したことじゃないわ」

 名前がしたのは彼女と透を繋ぐ糸を作っただけ。彼女を信用させたのは透の手腕あってのことだ。
 彼女、澁谷夏子がストーカー被害に悩まされている。それを知った名前は夜道で怯える彼女に声をかけた。大丈夫ですか、と。
 同性に心配され気が緩んだ彼女だが、さすがに初対面では事情を話してはくれない。名前もわかっていて、訊ねた。大丈夫。そう返されると踏んでいた。
 だからそこで名前は立ち去った。最後まで彼女を案じてみせて。「困ったことがあるなら探偵さんを頼ったらどうかしら」ーーこの街には有名な探偵さんもいることだし。そう、言い残して。
 ここで彼女が毛利探偵に依頼するとは考えなかった。ストーカー被害。彼女自身それを重大事件として扱うのに躊躇いがあるのは様子から伺えた。だからこうも言っておいた。「毛利探偵のお弟子さんなら喫茶ポアロというところで会えるそうですよ」こうして名前は彼女と安室透を繋いだのだ。
 名前に残る良心は痛む。けれどこれは必要なことだ。彼女には申し訳ないがーー利用させてもらおう。
 とはいえ名前には彼女がどう役に立つのかわからない。透は笑って答えてくれないし、名前の乏しい想像力では思いつきもしなかった。
 でも透が確信を持って言うのだ。「彼女こそが最後のピースを埋めるための糸口だ」と。
 透はカップをソーサーに戻すと、

「じゃあ僕はバイトに戻るね」

 と言って、席を立った。
 ポアロを訪れた彼女を連れ、入店した喫茶店。バイトを抜けて出てきたため、梓にも迷惑をかけてしまった。
 彼女のことを思うと、名前の胸は痛む。あまりに頻繁に仕事を抜け出している透。その皺寄せは必然的に彼女の元へ集まっているだろう。

「うん、頑張って」

 透に手を振り、名前も勘定を済ませた。
 透とは暫くは別行動になる。さて、どうしようか。考えた末、名前は一人街を歩くことにした。常日頃梓には色々とお世話になっている。何か彼女に贈りたい、と名前は思った。

 この街には大抵のものが揃っている。事件が頻発することを除けば、便利で住みやすい街だと思う。
 名前は菓子折りを手に、足取り軽く歩いていた。梓は気に入ってくれるだろうか。透の持ってきた雑誌には女性に人気だと書いてあったからたぶん大丈夫だとは思うのだけれど。
 そんなことを考えている時だった。

 ーーにおいが、した。

 名前にとって忘れられぬ、忘れがたい匂い。あの時の悔しさが甦る。足を折られ、成す術なく背中を見送るしかなかったあの時の。

「ライ……」

 ライ。赤井秀一。そして今はーー
 男は、赤井秀一とは似ても似つかぬ、けれど同じ匂いを纏った男は、名前を見て片眉を上げた。
 「おや?」優男風の青年は表情薄く、驚きを表した。それすら名前には白々しく映る。その皮の下にある非情さを知っているから。
 名前は固い顔で咄嗟に辺りを見回した。なんてことない、平和な夕刻。黄昏に染まった並木道は休日故に家族連れが目立った。
 そんな日常も、男がいるだけで色褪せる。赤井秀一。彼がいるだけで、火薬の臭いに満ちた闇が名前を呑み込んだ。
 名前の緊張とは対照的に、男はうっすらとした笑みすら浮かべた。懐かしい顔だ。そう言って。

「なぜあなたがここに」

「なぜ?おかしなことを言いますね」

 私が買い物をしていたらおかしいですか?
 男の手には食材の入ったビニール袋が下げられていた。あまりに似合わないせいで、名前の視界からは消されていたが。
 しかし名前が言いたいのはそんなことではない。そういう、意味ではない。

「あなたは死んだ、そのはずでしょう」

 なのにのこのこと。追っ手が名前だけとは限らないのに、平気な顔をして街を闊歩している。それが酷く名前を苛立たせた。
 そう、名前には我慢ならなかった。透の、バーボンの、痛みを知っているから。彼が苦しんでいるのを、知っているから。

「……本当に、死んでいたらよかったのに」

「酷いですね、私があなたにそれほどのことをしたとは思えませんが」

「あなたにとってはそうでしょうね」

 男は続きを促すように名前を見た。
 でも期待に答えるつもりはさらさらない。思いつかない。その時点で、名前には男への期待などなかった。
 彼は考えもしないのだ。透の正体に気づいているだろうに。彼がスコッチとどういう関係だったか知っているだろうに。それなのに、それ以上を考えようとしない。透の、傷の深さにまでは。

「私、あなたが大嫌いだわ」

「それは悲しいですね。私は結構好きですよ、あなたのこと」

 虫酸が走る。男がどれほど綺麗な仮面を被っていても。その皮を剥いで、血と硝煙にまみれた肉を露にしてやりたくなった。
 でもそれをするのは名前じゃない。名前の役目は終わったのだ。あとは、透に任せればいい。

「死体は墓に還る。そこに例外はない。だからあなたも、」

 必ず、透が彼を暴く。
 そう信じているから、名前は男に背を向けた。
 男はかつて言った。盲目的だと。それは正しいことなのか、と。

「私、選んだわ。考えて、考えたからこそ、彼を選んだの」

 名前の目的。果たすべき願い。
 それは"彼"の幸福。"彼"の願いの成就。そのために名前は生きる。そのために名前は、男を見なかったことにする。それは透の役目だから。
 それが名前なりの護り方。誰になんと言われようと、最早変える気はない。男が「残念だ」と言おうとも。