最後の挨拶
澁谷夏子の事件が解決した翌日、安室透は一日自宅に帰らなかった。事件が解決したことすら名前は彼からのメールで知った。彼女が突き落とされたことも。その事件を透が解決したのも。ーーパズルのピースが埋まったのも。
それ自体にとやかく言うつもりはない。これは透の事件だし、名前が知ったところでどうにかできるものでもない。
ただ、その姿を見ることができないのだけが名前の心をざわつかせた。たった一日、彼に会えないだけで。それだけで、彼の身を案じていた。もしも、なんて。彼には要らぬ世話だろうに。
「……どうか、無事で」
神様なんて信じちゃいない。でも今だけは縋れるものが欲しかった。何かに縋らなければ真っ暗な穴に突き落とされてしまう。足元に広がる大きな穴に。
そんな嫌な予感は明くる朝、ドアが開くまで続いた。
「……透!」
名前はソファの上で膝を抱え、まんじりともせずにいた。
だから微かな物音にも敏感に反応することができた。飛び上がり、彼の無事をその目で確かめた。
「あぁ……起きてたのか」
先に寝ててくれてよかったのに。
そう気遣う彼はいつも通りで。優しげな眼差しも言葉も名前がよく知るもので。そこに不安なんて感じる必要ないのに。
「……どうしたの、」
顔色が悪い。
そう指摘した。名前がしたのはそれだけだった。具体的なことなんて何もわかりやしなかった。名前はただの狼で、探偵ではないのだから。
なのに。
「……っ!」
それだけで。たった一言で、城壁は崩れた。
透は息を呑んだ。動揺を明らかにし、「まいったな」と苦笑した。
「失敗したよ、僕の読みが甘かった」
彼は笑いながら席に着いた。
その語調は軽く、ともすれば大したことなどないように聞こえる。心配なんて必要ないと。そう言外に表しているようだった。
だから名前は躊躇った。どうすべきか。どうするのが彼にとって最善なのか。名前は考えた。
「……無理して笑わないで」
考えた。けれど、名前に最善なんて、一手先なんて見えやしない。そしてそんな名前にできるのは、ただ心のままに行動することだけだった。
名前は手を伸ばした。笑みを描く口端に、その頬に。手を滑らせ、触れた。
「……無理なんかじゃないよ」
透は震えた。一瞬、ほんの一瞬だけ、体に緊張が走った。
それは触れていた名前にも如実に伝わった。それを彼だって気づいているはずだ。なのに彼は隠そうとした。なんてことはないと。何もなかったのだた、そう言った。
「……透、」
その時名前の心を駆け抜けたのは途方もない悲しみだった。
彼は傷を覆い隠そうとした。名前の目にも映らないように。その傷で気を引くことだってできたろうに。彼は正直に嘘をついた。
それがどうしようもなく悲しかった。そんなことに慣れた様子の彼が。完璧なまでの笑顔が。どうしようもなく悲しく、寂しかった。
「……これは、なんの真似?」
だから名前は彼を抱き締めた。そうすることしか思いつかなかったから。それくらいしか、名前にできることはなかったから。
「昔、友達がこうしてくれたのを思い出したの」
名前のたったひとりの友達。いつだったか、彼もまた名前を抱き締めた。それはたぶん人を殺した後だったと思う。いつものように上から下された命令に従って人を殺した日、帰宅した名前を彼は抱き締めた。
どうしてこんなことをするの。そう名前は聞いた。すると彼は「そうしたいからさ」と答えた。
名前には彼の言いたいことがさっぱりだった。でも今ならわかる。今なら、名前にも。
「友達……スコッチか」
透はされるがままだった。ソファに座ったまま、膝をついて前から抱き締めてくる名前をそのままにしていた。彼の手は力なく垂れ、それにも名前は泣きたくなった。
「君は馬鹿だな。奴は公安だ、組織を追う者だ。君は利用されてた、それだけだ、それだけだとなぜ、」
「知ってる」
名前は言い募る彼を一言で制した。
「知ってるよ、それくらい」
名前はスコッチのことを想った。その記憶を。彼が与えてくれたものを。
彼は名前を一人の人間として扱った。名前を友と呼び、様々なことを教えてくれた。彼のお陰で名前は夢を見ることができた。今を生きることができた。
それは名前を信用させるための演技だったのかもしれない。彼にとって名前はただの情報源で、それ以上でもそれ以下でもなかったのかもしれない。
「それでも私は彼に感謝してる。たとえ裏に何があろうとも、彼が与えてくれたものは確かに私を変えてくれた。……私は、昔よりずっと私を好きになれた」
名前は肩口から顔を離した。真正面から透の顔を見た。その翳った瞳を見つめた。
「だから、いいよ。透に利用されても、使い捨てられても。私はそれでいい。それがいいの」
名前は笑った。自然と、心から微笑むことができた。透のことを想う。それだけで。
それが名前にとっての幸福だった。
そう言うと、透の顔が歪んだ。ぐにゃりと眉を顰めて。くしゃりと唇を曲げて。
「馬鹿だな、君は……。本当に、大馬鹿者だ……」
苦しげな表情で、彼は吐き出した。吐き出してから、「いや」と自嘲の笑みを乗せた。
「馬鹿なのは僕の方だ。こんなのは正しくない。決意を翻すなんて間違ってる。そう、わかっているのに」
透は目を上げた。
その瞳に映る名前は泣き出す寸前の子供のようだった。
けれど名前の見る彼にも、涙が滲んでいた。瞳の奥で、水が揺蕩っていた。
名前の目がその光に、煌めきに、吸い寄せられていく。
ーーそして。
「ーー好きだよ、名前」
触れたのは瞬きにも満たない一瞬。けれど確かにその瞬間、名前の熱と重なり合っていた。その唇が甘やかな旋律を奏でる。その声が、瞳が、表情が。彼のすべてが今名前に向けられていた。
なのに、それでも彼は悲しげな顔をする。眉尻を下げ、「ごめん、」と懺悔する。
「言わないでおこうと思っていた。ずっと、ずっと……何もかもが片付いてからだって。そうでなければ僕は君を守ることもできないって。でも、」
透の手が動く。温もりが名前の背中へ回る。引き寄せられ、名前の耳に彼の心音が響く。
それは彼が生きている証だ。名前の隣を歩いてくれている証明だ。そしてそれ以上の幸福を名前は知らない。知らないままでいい。
「……でもこれも嘘かもしれない。君を利用するための。それでも、」
「いいよ。……あなたが隣にいる。私はそれで十分、」
でもできることならもっと頼りにしてほしい。
そう続けると、彼は笑った。今度は困ったように。でも苦悶の色は薄れていた。それが名前にも微笑みを連れてくる。
その上彼は、悩みながらも口を開いてくれた。
「……なら、やっぱり話すよ。君に、何もかも。……いや、知ってほしい。僕のことを、君にだけは」
覚えていて、と彼は言った。
それはひどく切なげで、瞳は大きく揺れていた。
だから名前は彼の手をぎゅっと握り締めた。
「聞かせて、あなたのこと。私に話せることなら、なんでも」
「……うん、」
彼はひとつ呼吸を置いて、それから語った。
彼の本来の役割を。スコッチとの本当の関係を。
ーー彼の本名が、降谷零ということを。