武官、不穏な気配を察する
矢をつがえ、的に狙いを絞る。
狩りの基本は殺気を見せないことだ。野性動物というのはそれに驚くほど敏感で、悟られたら最後、獲物を手に入れることができなくなってしまう。
だから名前の心は弓を構えながらも凪いでいた。風や河や大地に溶けた名前の意識。獲物がそれに注意を払うことはない。
そして。
一呼吸。その後に、矢は空を裂いて駆け抜ける。駆け抜け、獲物の胸を貫いた。
そこで初めて周りのものたちーー鴨の群れは驚き、慌てふためく。
それを無視して、名前は水面を赤く染める鴨を拾い上げた。
名前が奪った命。それに心の中で悼み、その後でありがとうと声をかけた。
「すっごいわねー、百発百中じゃない」
あたしの五光石並みよ。そう感心したように名前に拍手を送ったのは、河岸で土行孫を抱き締める蝉玉だった。
「そうだろうそうだろう」
それに鼻高々と答えたのは名前ではない。名前の肩に手を回した姫発が、自慢気に答えたのだ。
「ちょっと、王サマには言ってないんだけど」
呆れ顔の蝉玉。彼女の隣で狩りを眺めていた天化も「王サマはなんもしてねーさ……」とぼやく。
これだけでも姫発が受けた傷は深いのか。「うっ」と呻いた彼は胸を押さえる。
そのままよろりと倒れそうになる身体を、名前は慌てて支えた。もたれ掛かる身体は重く、なのに蝉玉は意に介さず、追い討ちをかける。
「そうよ、そう言う王サマは何ができんの?」
「それは、だな……」
「武王は楽がーー特に二胡を奏でるのがお上手ですよ」
口ごもる姫発の横から、名前は思わず口を挟んでいた。
「おい名前お前なに勝手に教えてんだよ」
「よいではないですか、事実なのですから」
余計なことをするな。そう睨まれても、名前はちっとも痛くない。それよりも姫発が侮られる方が余程胸が痛むというもの。
これが名前にとっての忠義の示し方。だからたとえ主の意向に背こうと構いやしない。
姫発も名前の思いは理解している。察しがついている。故にそれ以上強く言うこともできず、「しゃーねぇなぁ」と頭を掻いた。
名前の発言に驚いた蝉玉と天化、二人は揃って目を丸くしていた。
「へー、意外。なんかそういうのとは縁なさそうな顔してるのに」
「おいおい、そりゃどういう意味だ」
「いやいやそれは誰もが思うさ」
「んだとコラ」
純真な眼で辛辣な言葉を吐く蝉玉と、女性には強く出られない姫発。その鬱憤は自然、天化へと向かう。
眉をつり上げた姫発を宥めた後で、名前は未だ半信半疑といった風の二人へと口を開いた。
「姫家には楽に精通する方が多くいらっしゃるの。長兄の伯邑考さまは琴の名手と評判で……」
そこで、ほんの少し胸が痛む。ほんの少し、寂しさが去来する。もう二度とあの澄んだ音色を聴くことはないのだ、と。
一瞬目を伏せた名前に気づいたのは姫発だった。すぐ隣にいた彼だけが、同じように喪った彼だけが気づき、名前の手を自分のそれで包んだ。二人からは見えないところで。
その優しさに、名前は微笑みで返す。もう大丈夫、と。すると彼も頷き、笑った。
姫発には救われてばかりだ。昔も、今も。
一瞬のうちに交わされたそれに蝉玉は気づかなかった。彼女は無邪気な顔で、
「ふーん……、じゃあ名前もなんかやったりするの?」
と訊ねてきた。
まさか自分に矛先が向くとは。思ってもみなかったから、名前は「それは、まぁ……」と言葉を濁した。
「こいつは笛が得意だぜ。龍笛とか洞簫とかだな」
「ちょっと、姫発さま」
なのに姫発は名前を親指で指す。そうして堂々とした口ぶりでなんの躊躇いもなく話してしまう。
これに焦ったのは名前だ。だって、名前のそれは誰に誇れるようなものでもない。所詮は嗜み。時折手慰みに奏でるようなもので、伯邑考のそれにはとても敵わない。
だいたい笛が得意といっても他よりは、といった程度だ。特段優れているわけではない。巧いというなら、姫発の吹く洞簫も見事なものだと名前は思う。
だから、つまりーー期待されては困るのだ。
「いいだろ?これでお相子だ」
なのに姫発はあっけらかんと言う。
確かに話を始めたのは名前だ。姫発の言い分もわかる。理解できる。できるが、それとこれとは別だ。
「ですが……、あの、信じないでくださいね、蝉玉どの」
「えーいいじゃない。特技があるって」
名前は必死だった。懇願しているといってもいいくらいの語調で、蝉玉に訴えた。
だというのに彼女は朗らかに笑い、名前の背を叩いた。
「今度聴かせてよ、ね?」
「俺っちも聴きてーさ」
「……では、いずれ」
天化にまでそう言われては拒絶できない。
名前は曖昧な返事をしつつ、脳内でどうすればその状況を回避できるか考えていた。一番は二人がこの件を忘れ去ってくれることだが……。
頭を悩ます名前を尻目に、天化は姫発に「それにしても……」と水を向けていた。
「王サマはよく知ってるんだな、名前のこと」
「……まぁな」
姫発の声は固かった。けれどすぐに口角を上げ、にやりと笑う。
「付き合い長いからな、こいつのことは大抵知ってるぜ?」
天化と姫発。二人とも顔には笑みが浮かんでいた。
けれどそれは口許だけの話で、二人してその目には微笑みの一片すら浮かべていなかった。
「あら?あらあらあら?」
これに敏感に反応したのは蝉玉だ。野性動物が殺気を感じるのと同じくらいの早さで何かを感じ取ると、手で口を覆った。それでもおかしくてたまらないといった感情は隠しきれず、指の隙間から漏れ出している。
「蝉玉どの?」
「なんだかすっごくおもしろくなりそうな予感がするわ……」
「そう、ですか?」
自分のことで一杯だった名前には話の行方が見えない。天化と姫発を見てみても、何やら不穏な気配はするが、それがどうしてかまではわからなかった。
「もう!鈍感なんだから……」
無の境地に達している土行孫のことには気づかないくせ、蝉玉は呆れた様子で腕を組んだ。