チラチス


 日中の暑さは厳しく、移動には適さない。だから朝は早くに出立し、真昼には休息をとる。
 名前たちもそれに倣い、曙光の差し込む山中を登っていた。
 それを見つけたのは名前が先だった。
 ーー木々の間に、大きな影が落ちている。
 それが人であること、そして身動ぎひとつしないことに気づくや否や、名前は駆け出していた。どうした、と驚く太公望を置き去りにして。

「ありがとうございます、助かりました……」

 倒れていたのは名前よりも幾つか年少の娘だった。簡素なマントに覆われた体はまだ未成熟で、容貌にも幼さが残っている。
 そんな少女がなぜ山中で行き倒れていたのか。

「さてはおぬし、家出してきたな」

 太公望の推理に、少女の小さな肩が揺れる。「なんでわかるんですか!?」驚愕に見開かれる目。それを太公望は呆れた様子で見つめ返した。

「そんなの誰にだってわかる。おぬしのような小娘が一人旅などできるはずもないからな」

 おまけに少女の荷は少なかった。とても酷暑の旅に耐えられるとは思えないほどの身軽さ。
 それは少女の無謀さと、彼女の家がここから程近いということを示していた。
 そしてここから一番近い村といえばチラチスーー名前たちの目的地だ。

「行き先は同じ、ついでに家まで送ってやろう」

 太公望の言葉は名前が言おうとしたのと全く同じだった。
 しかし少女は顔をしかめる。嫌だ、と強く主張する瞳。家出してきたというのに早々に引き戻されるなんて、これでは無駄骨もいいところだ。
 彼女の気持ちはわかる。
 けれど。

「その足ではどのみち旅はできないでしょう。諦めて養生なさい」

「でも、」

「でも、じゃありません。旅ならばいつでも始められるでしょう?まずは怪我を治すのが先決です」

 名前が子供にするように説き伏せると、少女は不承不承頷いた。それでもまだ未練はあるらしく、名前に背負われながら幾度も後ろを振り返っていた。
 しかし少女の好きにさせるわけにはいかない。何せ彼女は足を痛めているのだから。
 無謀にも夜に村を出たという少女は、案の定道に迷った。緑深い山中。目印はなく、星も木々に隠されてしまえば進むべき道を見失うのは当然だ。
 進むことも戻ることもできずさ迷ううち、闇に足をとられ、気づけば斜面を転がっていたらしい。足を痛めたのはその時だ。

「だから本当に感謝してるんですけど……」

 なんとか村に帰らずには済まないか。
 少女の哀れっぽい声に名前の心は揺らぐ。

「ずっと、とは言いません。でも少しの間だけ……そう、次の町まででいいですから私を連れていってはくれませんか?」

「それは……」

 少女の懇願につい頷いてしまいそうになる。それだけ少女の声は切羽詰まっていた。
 けれど太公望は「ダメだ」ときっぱり言い切る。

「家出娘の面倒など見れるわけなかろう。わしらに見つかったのが運のつきと思って諦めるのだな」

 カカッと悪い顔で笑う太公望。
 そんな彼に、少女は眉を吊り上げる。

「太公望さんには聞いてません!私は名前さんにお願いしてるんです!!」

「名前に言っても結果は同じだがのう。なんせわしらはかたーい絆で結ばれているからなぁ」

「名前さん考え直した方がいいですよ!!この人絶対性格悪いです!!」

 太公望と名前の背中で繰り広げられる攻防。
 少女には悪いが、名前はつい笑ってしまった。
 太公望の突き放したような物言い。それが少女には冷たく感じるのだろう。
 けれど彼が少女のためを思って言っていることに名前は気づいていた。
 少女の一人旅。そんなもの絶対に遂げられるはずがない。それにたとえ町まで辿り着けたとしても、彼女がそこで生きていける保証はどこにもなかった。
 結局少女の願いが叶うことはなく、明くる日の夕刻、名前たちは目的地に着いた。
 そして着いて早々に少女は両親と再会した。

「本当にもう、なんとお礼を言ったらいいか……」

 安堵から泣き崩れる母と深々と頭を下げる父。その横で少女は決まり悪そうに俯いていた。迷惑をかけた自覚もそれに対する申し訳なさも少女は持ち合わせていた。
 それでも逃げるしかなかったのだ。
 ここまで来る間に聞かせてくれた少女の事情。それを思い出しながら、名前は口を開く。どうか叱らないであげてください、と。

「他人であるわたしが言うことではありませんが……彼女も悩んでいたようですから」

「名前さん……」

 少女は名前にゆっくり歩み寄った。そして屈んだ名前の首に腕を回し、「ありがとう」と小さな声で言った。

「私、頑張ってくる。名前さんが言ったみたいに。……ダメかも、しれないけど」

「ええ」

「もしダメだったらその時は連れていってくれる?」

 周りに聞こえないよう落とされた声。
 決意しながらも、それでも不安に震える少女の背を、名前は撫でた。少女が足を踏み出せるように。

 チラチスと呼ばれる小さな村は、アンシャンより北西、ザグロス山脈の中にあった。
 この辺りまで来ると気候も穏やかになり、暑さも和らいでいた。農耕が盛んな様子から水にも恵まれているらしい。

「こんな快適なところからわざわざ出ていきたがるとはのう」

 お礼に、と招かれた少女の家。窓際で寛いでいた太公望からは、少女が家から出ていくのが見えた。
 わからないものだ、と首を捻る太公望は少女の悩みを知らない。
 でも名前は違う。少女から打ち明けられた名前は、「女の子には色々あるのですよ」と微笑んだ。
 その言葉だけで太公望は察したらしい。

「なんだ、色恋か」

「そう言わないでください。年頃の少女にとっては一大事なのですから」

「そういうものかのう……」

 四不象に枯れていると評された太公望だ。いまいちピンとこないらしく、わからんなぁと繰り返した。
 少女には好いた男がいた。でもきっと叶わないのだ、と少女は諦めていた。

「村長の娘もね、彼が好きなの」

 夜営の最中、ひとつの夜具を分け合いながら少女は語った。
 小さな村だ。権力者といえば長くらいしかいない。そしてその娘を拒絶することなど普通はできなかった。徐々に外堀を埋められ、気づいたときには選択肢はなくなっている。
 そういうものなのだ、と少女の目には諦念があった。

「わかってる。けど、やっぱり見ているだけなんてできなくって」

 逃げ出したのだ、と少女は濡れた瞳で言う。
 元から村を出るのを望んでいた。外の世界への憧れ。遊牧民の血筋からか、少女はぼんやりと夢見ていた。
 少女の話を名前は黙って聞いていた。けれど何も言わないでいることはできなかった。
 少女が口を閉じるのと同時に、名前は彼女を抱き締めていた。

「……言わなきゃ、きっと後悔するわ」

「名前さん……?」

「きっと後悔する。……だって、わたしがそうだもの」

 名前の中で蘇ったのは過去になったはずの恋心だった。
 名前は恋をしていた。かつて、革命の最中に。すべてを擲ってもいいと、当時の名前は思っていた。
 でも名前は捨てることができなかった。
 死に急ぐ彼を止めることができなかった。彼に恨まれる覚悟ができなかった。それが彼の望みなら、と最期の戦いへ赴く彼の背を見送った。
 そして彼はいなくなった。名前の前から、永遠に。
 そうなってから名前は後悔した。行き場のない想い。咲くことも摘まれることもなく、ただ名前の中で在り続けた。美しい思い出として。
 淡いばかりのささやかな恋。想うだけで幸せだと思っていた幼い自分。ーーでも、そんなのは嘘だ。
 あの時告げていたら、と。今でも時折考えてしまう。想いを伝えていたら、何か変わったろうか。この胸に空虚が巣食うこともなかったのだろうか。

「だから、言ってしまいなさい。それでもしダメだったら……わたしが責任をとるわ」

 名前は少女と約束をした。
 でもその約束が果たされることはないだろう。漠然と、そう思う。
 少女は名前にないものを持っていた。恋のために足を踏み出す勇気。たとえその道が間違っていたとしても、名前にはできなかったことだ。

「……きっと、幸せになれるわ」

 名前は目を細めた。痛むだろう足をものともせず駆けていった少女の背はもう見えない。
 それでいいのだと思う。歩みを止めてしまった名前などより、夢を追ってほしい。
 そう思いながら、けれど同時に羨ましさも感じていた。
 ーーわたしも、動き出すべきなのかもしれない。
 名前は隣を見上げた。黄昏に染まった横顔を。遠くに馳せられた目を。
 そうしても感じるのは安らぎばかりで。彼のように甘やかな息苦しさはないけれど。
 けれどなくしたくないと思うのだけは同じだった。

「……そうだな」

 太公望は静かに言った。伸ばしかけた手が握り締められたのに、名前は気づかなかった。