正妃の繕い


 その日の夜も姫発は房室を訪れた。
 けれど名前を抱くことはせず、ただ寝牀を共にするだけだった。

「どうかなさったのですか」

 それ自体は別に珍しいことではない。だが、心ここにあらずといった風なのが気にかかった。
 名前はほんの少し上にある姫発の顔を見た。
 名前は今姫発の腕の中にあった。胸元から漂う薫り。墨に似たそれは竜脳香によるものだろうか。
 奇しくもその香りは文官として働く邑姜の纏うものと似ていて、胸がさざめいた。

「ん?……あぁ、いや、」

 二人を分かつのは夜着の薄絹のみ。だから彼が言い淀むのも呼吸する吐息も名前には明瞭に伝わった。

「邑姜に……あー、色々言われてな」

 彼が、微かに目を逸らすのさえ。ーー気まずげに、言葉を飲み込むのだって。

「邑姜どのに……」

 彼の唇が彼女の名を紡ぐ。それだけで名前の胸は悲鳴を上げる。
 邑姜のことは好きだ。周にとって必要な人材だということもわかる。個人的にも気持ちのいい女性だと好感を持っている。
 けれど。なのに。それでも。
 ーー他のひとの名前なんて呼ばないでほしい。
 咄嗟に浮かんだのはそんな浅ましい感情だった。

「何を言われたのです?」

「……大したことじゃねぇよ」

 気にするな、と姫発は名前の頭を撫でる。
 その温もりが好きだ。失いがたいと思う。
 でもそれは本当に名前の感情なのだろうか。ーー武王の正妃としての感情なのだろうか。
 名前には判別がつかない。だから口にすることもできなかった。彼を、問い質すことも。

「ならばよいのですが……」

 そんな台詞は嘘っぱちだ。いいわけがない。彼が何を悩んでいるのか。邑姜なら彼になんと声をかけたのか。彼が、彼女をどう思っているのか。気にならないはずがなかった。

「名前こそ平気か?準備に追われてるって聞いたぞ」

「問題ありません。皆、よくしてくださいますから。元宵の支度もきちんと進めております」

「そうか……」

 姫発は考えるような素振りを見せた。
 物思いに沈む瞳。それはなぜだか名前の胸を騒がせた。良い方に、ではない。どちらかといえば、嫌な予感がしていた。
 それが名前の思い過ごしであるのか。考えすぎであるのか。
 判断するのさえ今の名前にはできなかった。

「……名前も、外に出るのか?」

 元宵に、と姫発の目が問う。
 元宵節。春節の後に開かれる行事では市井に多くの燈籠が焚かれる。そして何より特別なのは、この期間だけ後宮の扉が開け放たれるという点だ。
 通常、掖庭宮に入った者が外に出ることはない。だから此度の元宵でも殆どの官女が門をくぐるはずだ。

「わたし、は」

 ーー正妃である名前も、例外ではない。この3日間だけは自由が与えられる。
 なのに一瞬、名前の心は躊躇った。
 どうしてだろう。ずっと、外に焦がれていたのに。宮に入ってからずっと、望んでいたことなのに。

「……ええ、そのつもりです。家族にも会いたいですし」

 けれどその躊躇を名前は無視した。思考を放棄して、嘯いた。
 家族に会いたい。そこに嘘はない。父や母や兄弟たち。名前が正妃になることを案じてくれていた人たち。彼らに会う機会は後宮に入ってからなかった。一年。その間ずっと、名前は掖庭宮に咲く花の一輪であり続けた。

「あぁ、そうだよな……」

「姫発さま?」

 名前の答えに不自然なところはなかったはず。
 なのに姫発の目が翳る。燭火が揺れ、彼の顔に影を落とす。
 姫発は「いや、」と首を振った。取り成すように口角を上げ、「名前はなんかやりたいことないか?」と話を変えた。

「元宵が終わったら時間とれそうなんだ。なんでもいいぜ、言ってみろよ」

「やりたいこと……」

 正直に言えば、ある。
 でも言ったら彼が困るのは目に見えていた。

「……いいえ、なにも」

 だから名前は緩く否定した。
 忘れなくてはならない。かつての生活など。武官であった自分など。馬で駆ける気持ちよさも、剣を振るう感触も。もう名前には手の届かないものだから。

「姫発さまこそ久方ぶりの休暇でしょう?羽を伸ばされてはどうですか?」

「……そうだな」

 空疎な言葉。空々しい態度。
 姫発の腕が強ばる。強く引き寄せられる体にはほんの少しも隙間がない。
 だというのに。
 薄絹越しに感じる温もりが、いやに寒々しく思えた。