ザグロス山脈
チラチスでの滞在はおよそひとつきに及んだ。
それは少女から引き留められたからであり、そして何よりこの小さな村が夏季にしては過ごしやすい環境だったからだ。
これより北へ進む予定の名前たちとしては、盛夏をチラチスでやり過ごすのが一番だった。
それでも旅立ちの時は必ず来る。
宛てなどない。理由も、また。
けれど名前も太公望も無言のうちに諒解していた。この旅はここで終わるものではない、と。
「ホントに行っちゃうの?」
だから少女から寂しげな視線を送られても頷くしかないのだ。
出立の朝、まだ日が昇りきっていない時間だというのに、少女は両親を伴って見送りに来ていた。
名前は目線を合わせ、少女の手をとった。
「ごめんなさい。でもわたしたち、行かなくちゃならないから」
少女は知らない。太公望が道士であることも。名前に仙人骨があることも。名前たちの事情など、少女は何一つとして知らなかったし、聞くこともなかった。
けれど何か感じ取るものはあるのか。
少女は存外あっさり引き下がった。初めて会った時とは別人のような大人びた目で。
「うん、そんな気はしてた。名前さんたちに相応しいのはここじゃないって」
少女の変化は、その隣に静かに控える少年によるものだろう。名前の予感通り、少女の想いは通じたのだ。それが我が事のように嬉しくて、名前は少女を抱き締めた。
「幸せに、なるのよ」
「……うん、」
これが今生の別れだとわかっていた。たぶん、少女の方も。
太公望と共に歩む。それは即ち俗世との断絶を意味する。
彼と同じ生活を送るうちーー気の操作や意識の沈着といった修煉を行ううち、名前は己の時間がひどく緩やかに流れていくのを感じるようになった。
だからもう、名前はひとところに留まることができない。ーー人の理を外れてしまった、この体では。
そんな名前の体に手を回し、少女は耳打ちした。北へ行くならおすすめの場所があるの。そう囁く声は秘めやかながら、しかし名前の寂寥を照らす明るさを持っていた。
「と言っても、私も行ったことはないんだけどね」
少女はここより北西、ザグロス山脈の麓にある場所の名前を名前に教えてくれた。
「とっても綺麗なんですって。だから名前さんも気に入ると思うの」
村を通りがかる商人や遊牧民から聞いたことを、少女はうっとりとした様子で話す。
それは夢見る語調でありながら、しかしかつてあった諦念はすっかり消え去っていた。
少女の変化に、名前は目を瞬かせる。そしてそれを少女も察し、「あのね、」と口を開く。先ほどまでよりもっと落とした声で。
「私も村を出ようと思ってるの。今度は、彼と」
少女は頬を染め、名前に微笑んだ。ありがとう。そう言って、手を離す。
「私も願ってるから、名前さんの幸せを」
少女は少年と寄り添い合いながら、名前たちを見送った。
それは名前の背中を押すに十分すぎる光景だった。
「あの娘と何を話しておったのだ?長いこと捕まっていたが」
夏の盛りを過ぎた山中はすっかり冷え込み、朝露に濡れる木々も相まって清涼な空気に包まれている。遠くから聞こえるさらさらとした水音もそれに一役を買っていた。
これはカールーン川のものだろうか。
そんなことを考えながら、外套の胸元をかき合わせた時だった。
太公望は後ろを振り返り、言う。
「また連れていけなどと駄々をこねていたのか?」
「いいえ、それはもうないでしょう」
名前は笑った。
村は既に森の中に消え、少女の影も残っていない。
それでもまだ、少女から灯された光は名前の中で輝いていた。
「女の子の成長は早いですからね」名前の言葉に、「確かにな」と太公望は深く頷いた。
「出会った頃は、ほれ、名前もずいぶんと小さかったものだ」
「そうですね」
太公望の言葉は冗談に過ぎない。何せその手が描く円は幼児ほどの大きさで、そんな齢に彼と会った記憶など名前にはないからだ。
しかし名前は首肯した。
「あの時のわたしは幼い子供でした」
体が、ではない。その心のことを名前は言っていた。
当時の名前はただ西岐のために生きていた。西岐の、西伯侯の役に立つ。それだけを目指して。
そうあれたのは名前が他を知らない子供だったからだ。その他の道など考えもしないで、自分の足で歩くことなど思いつきもしないで。ーーただ、標を追いかけていた。
けれど標はなくなった。この世界から消えたのと同じように。名前の標もまた、失われた。
「……なんて、感傷に浸ってばかりはいられませんよね」
名前は空気を変えようと殊更に明るく振る舞った。
後悔はある。寂寥も。想いの残滓も、また。
けれど進むと決めたのだ。それを抱えたままでも。それでもなお、歩みを止めたままではいられないと。
ーーもう二度と、後悔することのないように。
「名前、」
「太公望どの、あそこに実がなってますよ」
そう決意したとはいえ、なかなか口に出すのはーー言葉にするのは難しい。
名前は何事か言いかけた太公望を遮り、木々にぶら下がる果実に手を伸ばした。
「太公望どのもどうぞ」
「ん、……おお!これは葡萄か。まさかこんなところにもあるとはのう」
「ええ、それだけこの土地が豊かということでしょうね」
名前は摘み取ったばかりの小さな実を口に含んだ。甘みと微かな酸味。喉を通る爽やかな感触に、自然と笑みが溢れる。
しかし視線を感じ、目を上げる。
「太公望どの?」
ここには名前の他には彼しかいない。だから視線の主も彼のはずだ。
けれど太公望は「いや、」と慌てたように目を逸らした。仄かに染まる目元は羞恥を意味している……のだろう。
そこまではわかっても、その先はてんで思い浮かばない。
不思議がる名前を余所に、太公望は手の中の果実を一気に口に放り込んだ。
「もったいないではありませんか」
「知らんのか?葡萄はこうした方が美味いのだ」
それらしい顔でもっともらしく話す太公望。だがそんな話は聞いたことがない。それにこの実を栽培していたチラチスの村人だって名前と同じ食べ方をしていた。
「太公望どのったら、嘘はいけませんよ」
「はて?わしがいつ嘘を吐いたと言うのだ?」
「今まさに。その発言こそが嘘でしょう」
もう、と名前は呆れた風に腕を組む。けれど心は変わらず穏やかなままだ。沈むことも高鳴ることもない。凪。でも、だからこそ名前はーー
「……ありがとうございます」
「ん?何か言ったか?」
「いいえ、なんでも」
だからこそ、共に在りたいと願ったのだ。