水の揺籃
チラチスを出て半月もすると気温はぐんと下がり、一月経った頃には盛夏の時が嘘のように雨が降り続くようになった。
名前たちはザグロス山脈沿いに北西へと進んだ。その道のりは大半が岩場で、実りに乏しかった。
人が住むのに適した土地ではないのだ。だから小さな集落を見つけるたびに長い休息をとった。先を急いでいるわけではない。出立はいつだって万全の状態で迎えるようにした。
そうして一月と半分を過ぎた頃、二人は目的地近くの村に辿り着いた。
「おお……久方ぶりの牧草地だ」
感涙に思わず声を上げる太公望。それは名前も同じで、赤茶けた日々に差し込む緑を思う存分吸い込んだ。
広がる牧草地。それはひとえに山脈から流れ込む川のお陰だろう。細く伸びる小川は濁りなく、静かに土地へと溶けていく。
とはいえ乾燥しているのは他と一緒だ。まだこれを外すことはできないな、と名前は日除けのマントを被り直した。視界が狭まるのは落ち着かないが、しかしこの暑さから身を守るためなら仕様がない。
「さて、あの娘が勧めてきたのは湖だったか」
「ええ、なかでも雨季が一番美しいそうですよ」
太公望は気のない返事をした。美しい景色。そうしたものに彼は興味を示さない。それよりもーー
「これだけ水が豊富なのだ、さぞやよい果実がなっているだろう」
食事の方が気になるらしい。
食い意地が張っている、とは四不象もよく言っていたが、彼と二人旅に出ている間に名前も痛感した。
締まりのない顔をした太公望は手をわきわきと動かす。その姿からは軍師であった過去など伺えない。けれどそのどちらもが彼の本質なのだ。
名前は、「その願いが叶うよう祈りましょう」と微笑んだ。
結論から言えば太公望の予想は当たっていた。
夏期を過ぎた村ではザクロやリンゴがたわわに実っていた。名産だというアンズの旬が終わっていたのは残念だが、しかしそれにしても十分すぎるほどに村は豊かだった。
大皿に乗せられた色とりどりの果物。赤に緑に黄色。借りた部屋に入ってすぐ、瑞々しく手招く果実が目に入った。卓子に置かれていたそれに、太公望は吸い寄せられていった。ふらふらと。
「うまい!!」
「でしょうね」
崩れた相好からも如実に伝わってくる。
果汁に濡れた手もそのままに、太公望は小さな実を名前の口許に寄せた。
「ほれ、おぬしもどうだ」
朱色の実は親指の先ほどの大きさをしていた。名前には馴染みのないものだ。まじまじと見つめてからーー名前ははたと固まった。
「あの、太公望どの」
「ん?」
「これは手ずから食べさせてくださるということなのでしょうか……?」
太公望の勧めたもの。それは彼の指の間に挟まったままで。だから名前がそれを食べるためには太公望の指ごと銜えなくてはならなくて。
しかし太公望がそれを狙っているとも思えず、名前は困ってしまった。
そしてその困惑は名前の言葉でようやく太公望にも通じたらしい。
一拍の沈黙のあと。
「い、いや、そういうわけではないのだ」
「そ、そうですよね」
太公望は舌を縺れさせた。そして名前も。
二人はぎこちなく視線を逸らした。不自然だというのは自分たちが一番わかっていた、けれど。
「……よし!では早速その湖とやらに行くか!!」
「は、はい!」
着いて早々。体を休めることなくバタバタとまた身支度を整える二人。それはこの館の主にも奇異に映ったらしく、「もう出掛けるのかい」と驚きと呆れの混じった目で見つめられた。
名前はもう、笑って誤魔化すしかなかった。
しかし。
「まだ着かんのか……」
「そのようですね……」
この選択が失敗だったと気づいたのは、村の灯りが見えなくなるまで歩いたあとだった。
村を出た時には薄暮の気配などなかったというのに。思いの外目的地が離れていたために、二人はすっかり夜陰に包まれていた。
道を照らすものなどなく、星々だけを頼りに足を進める。それはあまりに心許なかった。
「このまま朝を迎えたら行き倒れてしまうぞ」太公望の言葉は冗談でもなんでもない。
朝晩は冷えるようになったとはいえ、まだ夏の気配が残る季節。うっかり砂漠にでも迷いこんでしまったらひとたまりもない。
「だ、大丈夫ですよ、ほら、星さえ見えれば方角はわかりますから」
「だがいまだに辿り着けないではないか」
「う……」
そう言われると、自信がなくなる。
なにしろこの土地を訪れたのは初めてのことなのだ。だからつまり空の見え方も異なるということで。
「そ、それでも太公望どのだけは生き延びてくださいね」
太公望には「始まりの人」の力がある。この旅だって彼ひとりであるならもっと気儘で気楽なものになっていたはずだ。今この旅で苦労しているのはすべて名前のせいで。
だからもしもの時には切り捨ててほしいと思うのに。
「何バカなことを言っておるのだ」
太公望は名前の頭を小突いた。そんな道など初めからないと言わんばかりの語調で。
溜め息を吐きながらも、名前の手を離そうとはしなかった。
心配が杞憂に終わったのはどれほど歩いた頃か。
「あ……っ」
突然、景色が開けた。
そこには白銀の光が瞬いていた。だから名前は最初、それが空なのだと思っていた。それにしてはずいぶん近くに感じるな、と。
けれど近づくにつれ、理解した。その光が空を映したものであるのだということに。それが、湖だということに。
「本当に、きれい……」
息を呑む。
そこに空と湖の境界はなかった。地平線は輪郭を失い、夜空に溶けていた。星は落ちることなく、湖の上で踊っていた。
気づけば名前の足は止まっていた。そして太公望も。
「これはまた見事な」
太公望は屈んで水鏡に触れた。「塩湖はここに来るまでも見かけたが……」これほど大きなものを見るのは初めてだ、と太公望は言う。
名前も足許を見下ろした。よくよく見てみれば薄く張られた水の底。澄んだ膜の下には白い結晶が沈んでいるのがわかった。
「ではこの上を歩くこともできるのでしょうね」
「恐らくはな」
そう言いながら、どちらも足を踏み出すことはしなかった。
水の揺籃、と少女は言った。そう呼ばれる湖が北部にはあるのだ、と。
改めてその名を噛み締める。水の揺籃。まさにその通りだ。
揺りかごを踏み荒らすことなど名前にはできなかった。だからただ見つめた。降り注ぐ光を。どこまでも広がる世界を。ーーその先の、未来を。
「わたし、あなたが好きです」
こぼれでた言葉は無意識のうちだった。
太公望が目を見開くのがわかる。立ち竦む体。言葉を失う喉。それらに気づきながらも、名前は止まらない。ーー止められない。
名前は太公望を見上げた。じっと。不思議なほど静かな心で彼を見た。
その瞳に星が宿っているのがうっすらと見えた。それをもっと近くで見たいと思った。
そう、思ったから。
「これが恋なのか、そうでないのか。わたしにはわかりません。でも、あなたを失いがたいと……共に在りたいと。そう、思います」
名前は息を吸った。「だから、」言葉が震える。心臓が音をたてる。そしてなにより、彼の温もりを知りたいと思った。
「選んでください、太公望どの。わたしの想いが恋なのか。……そうでないのか」
「名前……」
太公望はやっとそれだけ言った。それだけ言って、くしゃりと顔を歪めた。
「おぬし、それは卑怯だろう……」
名前のよりよほど頼りない声。ともすればかき消されてしまいそうな想いの片鱗。
太公望の言う通りだ。だから名前も「わかっています」と顎を引いた。
太公望が恋でないと言うのなら名前はそうするつもりだった。恋ではなくーーそう、愛に似た感情として。これまでと変わらぬ旅を望もうと思った。
でも、もし。もしも、彼がーー
「本当に、卑怯だ……」
太公望の目が揺れる。波立ち、さざめく。しかしその水底にはやはり光がある。湖に宿る星よりもさらに尊い光が。
名前に近づいて、離れていく。
「……ずっと、こうしたいと思っていた」
温度はなかった。ただ微かな感触だけが名前の唇に残っていた。
太公望は泣きそうな顔で笑った。そこにはいくつもの感情があって、そのすべてを推し量ることが名前にはできなかった。
それでも。
「名前、わしはおぬしをいとおしいと思うよ」
「……わたしも」
これだけはわかる。
名前はそっと彼の首に手を回す。踵を宙に浮かせ、爪先立って。
「わたしもあなたに、恋してます」
太公望に触れるだけの口づけをして、微笑んだ。