楼蘭


「わしはとんでもないことに気づいてしまったかもしれん」

 それはごく普通の、ありふれた昼下がりのこと。
 穏やかな日差しとは対照的な語調で太公望は切り出した。その顔はひどく深刻な様子で、名前も思わず居住まいを正す。何事か、と。
 かつて国を乱していた妲己、そしてその裏で糸を引いていた女カ。妲己は地球と融合し、女カを倒した今、身近に迫る危機はないはず。新たに興った国、周も最近は安定したらしく都を移したところである。標のなくなった世界では何が起こるかわからないが、少なくとも名前には心当たりがなかった。
 しかし太公望の纏う雰囲気がただならぬものであるのも事実。その上伏羲となったはずの彼から王天君の気配が消えている。何かあったのだ、と名前にも察せられ、自然その顔も強ばった。

「とんでもないこと、とは?」

 腹は据えた。何が起ころうと名前は太公望に着いていくと決めたのだ。今さら逃げ出すつもりは毛頭ない。ならばもう答えはひとつしかなかった。

「……驚くでないぞ」

 太公望の口が開く。それを名前は固唾を飲んで見守った。
 そして。

「パワースポットになる桃は格別に美味い、という大発見をしてしまった」

 勿体ぶって飛び出た発言に、名前は目を見開いた。見開き、脱力した。

「それは……よかったですね」

「ああ!」

 太公望は大きく頷いた。満面の笑みで。その少年じみた表情に、肩透かしを食らった名前も「まぁいいか」と思ってしまう。
 以前の戦いの中でも再三言われてきた「太公望に甘い」という台詞が今になってわかった。確かに、名前は太公望に強く出ることができない。というより、大体のことを受け入れてしまう。それは彼と旅をするようになって顕著になっていた。
 これが惚れた弱みというものだろうか。
 そんなことを考える名前の横で太公望はつらつらと語る。

「わしもな、薄々は感づいておったのだ。もしかしたら……とな。しかしここに来て間違いないと確信が持てた。この国は水源が豊富だというのにこう……わしの心に引っ掛からんのだ。やはり重要なのは"気"であった」

 現在ふたりがいるのは楼蘭、西域にあるオアシス都市国家である。300里以上もある塩湖に接し、豊富な水資源により栄える国は当然太公望好みの果実で溢れていた。
 だから名前には満喫しているように見えたのだが、そうではなかったらしい。

「ではすぐに発ちますか?」

 好物である桃のこととなると太公望はこの通り。その熱心さから名前は彼が楼蘭をすぐに発つものとばかり思っていた。
 が、予想に反し、太公望は躊躇いを見せた。

「そうだのう……」

 それまで饒舌だった口がぴたりと止まる。
 物憂げな瞳。とても桃ひとつの問題とは思えないーーそう感じた名前ではあったが、それを口にすることはなかった。いや、できなかったという方が正しい。
 だってそれは彼が何かを隠しているということに他ならないからだ。
 だから名前は問うことができなかった。太公望は思慮深い。いつだって物事を俯瞰して見ている。そんな彼に、どうして口を挟めよう。何か考えがあるのだ。そう言い聞かせることしか名前に術はなかった。
 なのに太公望は名前を見る。名前を見て、問いかける。

「おぬしはどうしたい?」

 と。選択権を名前に与えた。名前には何もわからぬというのに。

「……ずるいわ」

 口を尖らせた名前に、太公望は笑う。「そうだな」とあっさりと肯定して。眉を下げながら、目を細めた。

「わしはズルい。おぬしに委ねるということはおぬしに責任を押しつけると同義だ」

「わかっているのに選ばせるのでしょう?」

「あぁ。……それでもわしは、名前に選んでほしい」

 太公望の手が頬を滑る。輪郭をなぞられ、名前の頬はすっかり彼の手中に収まってしまう。
 その緩やかな拘束の中で、名前は目を閉じた。そうしながら、頬を包む温もりに想いを馳せた。
 愛しいと思う。手離しがたいと。いつだって思っている。老いのない肉体。永遠に等しい時間。それを得てもなおーーいや、だからこそ、余計に。
 老いのない肉体を、永遠に等しい時間を。共に過ごすのは彼であってほしい、と。

「わたし、は」

 目を開けば変わらぬ距離に彼がいる。そのことに、ひどく安堵した。彼だって名前と同じであるのに、なのになぜだか今はいやに儚く感じられた。ふらりと消えてしまいそうな、そんな頼りなさを感じた。
 だから名前は彼の手に触れた。自身を覆うそれに手を重ね、決して離れぬようにと頬をすり寄せた。

「あなたがいるならどこだっていいわ。でも、できることならもう少し……ゆっくりしませんか」

 それだけでは不安で、隣に座る彼に身を寄せる。一切の隙などないように。彼のもう片方の手も絡めとり、窺い見た。

「……太公望さん?」

 答えはない。
 どうしたのかしら、と顔を曇らせる名前だが、どうしようもなかった。何せ太公望は名前の頬から手を離し、今度は自分の顔を覆ってしまっているのだから。

「あの、」

 くい、と袖を引いても強固な守りは崩せない。太公望は掌の中で小さく呻くばかりであった。

「……おぬしこそよほど策士ではないか」

 しかもようやく言葉にしたものがこれであるのだから、名前は疑問符を浮かべるばかりである。
 名前は自身の気掛かりに意識がいっていて、つまりその行動には常以上の大胆さがあることにまったく気づかないでいた。
 だから顔を上げた太公望の目許が赤らんでいてもわけがわからなかった。ただ彼の目の中に自分が映っていることに束の間の安息を見出だしていた。

「……そうだのう、急ぐ旅でもないし」

「それじゃあ、」

「あぁ、もう少しこの国に留まるのも悪くない」

 桃の方も決して不味いというわけではないしーー太公望は言い訳のように言い添えて、それから困ったように名前を見下ろした。

「選べと言ったのはわしだが……これでは、どうにも鈍ってしまいそうだ」

「え?」

「いや、なんでもない」

 緩く首を振る太公望は、やはりどこか距離があった。隔たりとでも言うべきか。今はただの太公望であるはずなのに、それでもやはり彼からははじまりの人に感じたのと同じものがあった。

「……ね、太公望さん」

「ん?」

「勝手に、いなくならないでくださいね」

 だから思わず口にしていた。縋るような目で。縋るように抱きついて。縋るように、声を詰まらせた。
 太公望は驚いたような顔をした。そうしてからゆるりと目許を和らげ、「あぁ」と名前の肩を抱き寄せた。

「約束する。おぬしを一人にはしない」

 それは力強い語調だった。確かな意志が窺えるものだった。
 けれどそれでも名前の胸のさざめきはやまなかった。嵐の前のようにざわざわと音を立てていた。暗雲が立ち込めるのを止められなかった。
 それを直視したくなくて、名前は太公望の肩に顔を埋めた。

「……好きです。あなたが好き、だから、」

 ーーどこにも行かないで。わたしを一人にしないで。
 そんな叫びは舌先で溶けた。
 言えるはずもなかった。言ってしまったら、予感が現実になってしまいそうだった。怖くて、怖くて。

「名前……」

 だから太公望も謝らなかった。ただ蓋をして、名前を抱く手に力を込めた。
 その目が切なげに揺れているのを名前が見ることはない。けれどそうしなくとも彼が葛藤していることは伝わっていた。伝わるからこそ余計に苦しかった。

「今だけ……ですから、」

「……わかってる」

「今だけ……すぐに元通りにしますから、だから、今は、」

 許してほしい。きっとまた何事もなかったかのように振る舞えるはずだから。太公望が望む通り、ありふれた日常に帰るから。
 別離などとうの昔に覚悟していたつもりだった。多くの別れを経験してきたはずだった。
 それでもなお、胸の痛みが和らぐことはなかった。
 きっとこれは永遠に続くのだろうと名前は思った。彼らが味わったように、名前もまた、知己との別れに胸を痛め続けるのだろう。それがこの道を選択した者の責任なのだ、と。
 それをわかっていて、現実を先延ばしにする己の弱さ。ずるいのはわたしの方だ、と名前は唇を噛んだ。