東京駅発9時50分

 プラットホームは混雑を極めていた。どうやら乗客だけでなく見物人まで集まっているらしい。年に一度しか走らないというベルツリー急行。なるほど、乗ることは叶わずとも、せめてその姿を写真に収めたいという気持ちは分からないでもない。
 黒ハットを直しながら、名前は周囲に目を配った。幾度もシャッターを切る青年、おしゃべりに夢中な高齢の団体客、走り回る少年――客層は様々だ。

「この中に怪盗キッドもいるのかしら」

 日本を騒がせている大怪盗。来月、このベルツリー急行で展示予定の宝石を、彼が盗み出すと予告を出したのはつい先日のこと。天下の大泥棒が下見に来ているかもしれないと思うと、名前でも少しばかり興奮してしまう。何せ、彼は変装の達人だというのだから!一時ベルモットに師事していた身としては関心を持つなという方が難しい。怪盗キッド……彼の腕前はいかほどか。ベルモットよりも変装は上手いのだろうか――。

「こら」

 人波をかきわけ歩きながらそわそわと辺りを見回していると、その額が透の人差し指に弾かれた。今日の彼は白いシャツに黒のベストとネクタイ、灰茶色のスラックスというどこかの舞台衣装かと見紛う出で立ちである。
 「目的を見失うなよ」キャスケットの下に浮かぶ笑み。だから名前も笑って、安心させるように彼の腕を軽く叩いた。

「ちゃんとベルモットの言いつけを守るから、安心して」

「心配だな、今の君は誕生日の朝を迎えた子供のようだから」

「……リードがついてるから、飛びかかったりしないもの」

 いくらベルモットの命令が気乗りしないものであっても。そもそも名前はシェリーを連れ戻すことにだって気が進まない。彼女と接点はないが、それでも組織から逃げ出したいという感情には覚えがある。そういう感情があったという記憶すらもはやおぼろげなものとなってしまったが。

「ほんとう、いやになる」

 溜息を吐いた名前の手を透が握った。同意だとでもいうように。
 ステップを上がり車内に入ると、人工的な暖かさが体を覆う。名前はチェスターコートを腕にかけ、自分たちのコンパートメントに入った。大きな窓とゆったりとした室内――日本では珍しい造りだ。食堂車までついたこの列車は、ノンストップで名古屋まで行くのだという。

「これをゆっくりと楽しめたらよかったのだけど」

「僕たちも一つの舞台に上がらないと、ね」

 やれやれと二人は肩を竦め合った。殺人事件の予定がないだけマシといったところか。いやでも、この列車には何人かの探偵が乗り合わせていることだし、事件の方からこっちにやってくるかもしれない。願わくは、豪雪で足止めを食らいませんように。
 10分ほどして列車は走り出した。観客は流れていき、景色は長閑なものへと移ろっていく。
 「そろそろ行かなくちゃ」腕時計に目をやり、重たい腰を上げる。
 今回の名前の仕事は仕事とも呼べないものであったけれど、気が進まないものは進まない。透の役に立てないキャスティングという点もそれに拍車をかける。飼い主が前線に出ているというのに、後方で控えるだけの猟犬――そんなものに何の価値があろうか!
 「そんな顔するなって」しょぼくれた名前の背を、透の手が一度大きく叩いた。

「無事終わったら、ご褒美にどこか連れてってやるから」

 不意打ちに名前は目を瞬かせる。

「……この後も、一緒にいられる?」

 そっと訊ねる声は吐息のようなものになった。
 シェリーの捜索と赤井の生死確認、それが名前の任務だ。そのどちらもが今日済んでしまう以上、彼との日々はこれっきりだと思っていた。だからこそ名前の足取りはより鈍くなっていたのだが。
 ……信じても、いいのだろうか。
 期待と不安。透を窺い見ると、彼は少し驚いたような顔をしてからゆるりと笑った。

「……当たり前だろ」

 その一言で十分だった。名前は目を輝かせ、透の両手を掴む。

「絶対だからね」

 それに頷くのを確認してから、名前は身を翻す。
 ――ごめんなさい、シェリー。自分のためにあなたを捕らえる私を、どうか赦さないで。