正妃の望み
掖庭宮は男子禁制だ。
けれど例外というものはどこにでもある。
ひとつは天子。そしてもうひとつはーー
「太公望どの……!」
「おお名前、久しいのう」
人間界に縛られない仙道だ。
そのひとりである男、道士太公望。彼は先の戦いよりずっと死人として方々を旅している。
しかしその仮面は武王によって剥がされたはず。けれど彼は身ひとつでこの宮を訪った。
「まだ武吉どのたちから逃げているのですね」
「あやつらをからかうのは面白いからのう」
道士のくせ、その顔を悪役のように歪めて笑う太公望。その姿すら懐かしく、名前は表情を緩めた。
周は新たな年を迎え、近づく宵節に人々の足が浮き立つ頃。
名前はひとり、房室に備えられた厨に立っていた。こういうことは尚食の仕事で、正妃が使う必要のない場所だ。
けれど名前はそこにいた。侍女ひとりつけることなく、手を動かしていた。
そこに太公望は不意に現れた。外では騒ぎになっている様子はない。相変わらずの静寂。何もかもが死に絶えたような世界を、彼は土足で踏み荒らす。
それが、ひどく心地良い。
「まったく、どこから入り込んだのです?ここの者は太公望どののことを知らないのですから事が知れれば捕らえられてしまいます」
名前が太公望に最後に会ったのは宮に入る前。都がまだ朝歌にあった頃だ。その時には今いる侍女も名前に侍ってはいなかった。
危惧する名前に、けれど太公望は笑い飛ばす。「大丈夫だ」抜かりない、と。
「中庭院から入り込む者など仙道以外におらんだろう。誰の目にも止まらなかったぞ」
「そりゃあそうでしょう。普通の人は空を飛べませんもの」
「ならばわしが捕まることもないな」
太公望は名前の手元を覗き込んだ。「甘味でも作っておるのか?」卓子に並べられたもの。砂糖に胡桃、それから餡。誰が見たって一目で甘味の材料とわかろう。
「湯圓ですよ。ほら、宵節が近いでしょう?」
「そういえばもうそんな季節か。通りで騒がしいと思った」
湯圓。もち米を捏ね、餡を包んだそれは宵節では代表的な食べ物だ。これと燈籠がなくては宵節を語れないといっていいほどに。
「しかし明日はまだ宵節ではないだろう?街に灯りが並んでいなかったからな」
「ええ、だからこれは試作です」
そこで、名前は目を伏せた。
なぜ、と追及されたら。作り慣れたものをどうして今さら練習するのかと問われたら。
名前には、答えられない。
いや、答えはある。明確に、この胸に。
けれど、言ってしまったらそれは形になってしまう。徒になるとわかっているのに。
それでもなお咲かせる勇気が名前にはなかった。
「ならばこれはわしが貰おう」
だから太公望がそう言ってくれて心底安堵した。
問われないためにわざわざ人払いをしたのだ。誰にも知られたくなかったから。侍女にも邑姜にもーー何より、武王に知られたくなかった。
「助かります。一人で食べ尽くさなくては、と覚悟しておりましたから」
「一人?武王なら喜んで食べるのではないか?」
安堵した、のに。
太公望は怪訝そうにその名を出した。名前の頭を占めるその名を。
名前の手が止まる。
「武王、は」
息を吸う。言葉を、続けようとして、……喉が、詰まる。
唇を噛む。きつく、きつく。薄い皮膚が裂けて、血が滲むほどに。
「……武王は、お忙しい身ですもの」
目の奥がずくりと音を立てる。言葉は喘ぐようで、頬は引き攣れて。
抑えなければ、泣き出してしまいそうだった。
「忙しい?武王がそう言ったのか?」
「いえ、違います、けど」
名前は頭を振った。
「……でも、そうじゃなきゃ、わたしは」
理由が、なくなってしまう。武王が夜にしか名前を訪ねてこない、理由が。
それは名前が実を結ぶための花でしかないというのと同義だった。実をーー子をなすためだけの、それしか価値がないのだと。
「名前、」
気づけば、名前は太公望に支えられていた。膝には力が入らず、そして自分の足で立とうという気力さえ沸かない。
「ごめんなさい……」
名前は縋った。太公望に。彼の胸に顔を埋め、幼児のようにしがみついた。
太公望は拒絶しなかった。どころか、「大丈夫だ」と言って名前の頭を撫でた。衣が名前の涙で濡れるのも厭わず。
太公望を煩わせたくない。そう思うのに、身を引くことができない。ただ嗚咽を堪えるので精一杯だった。
「わしがついている。何も心配することはない。だろう?」
「それとも周の軍師が信用ならんか?」と、太公望は冗談めかして言う。それが名前を慰めるためのものであるとわかるから、素直に頷いた。
太公望は優しい。優しく名前を抱き止め、寄り添ってくれる。
なのにそれでも名前の心は満たされなかった。本当にほしいのは、共に歩みたい人は、彼ではないからーーそんな、傲慢な理由のせいで。