正妃の叫び


 後宮の侍女や官女はそれなりの家格の娘で構成されている。
 天子からお声がかかることもある娘たち。そのため、釣り合いのとれる家柄の出でないといけなかった。
 だから今身の回りの世話をしてくれている侍女たちのことを名前はよく知らない。そもそも出会ってからそう日は経っていないのだ。かつて西岐の城に仕えていた者はひとりとして宮に入っていないし、それに元々武官として働いていたせいでなんとなく彼女たちとは付き合いづらかった。
 気後れしているのだ、というのに気づいた時には衝撃を受けた。これまで武官だったことを誇りこそすれ、恥ずかしいと思うことなどなかった。
 けれど彼女たちのーー良家の子女たちの柔らかな手だとか娘らしい反応だとか、そういうものに目がいくたびーー名前は身を隠したくなった。
 そういうとき、名前はひとりになるようにした。誰にも見せたくはなかった。そんな醜い思いも、表情も。
 武王の正妃として正しく在らねば。それだけが名前を支えていた。
 掖庭宮の庭は広い。その豊かな竹林の中を、名前は歩いていた。供を連れず、ひとりで。
 それはよくあることであったから、侍女も誰ひとりとして気にとめなかった。
 壁を作ったのは名前が先か。彼女たちが先か。
 わからない。けれど、確かなのは名前の足許がひどく頼りないものであるということだけだった。
 竹林の中は清涼な空気が漂っていた。とても壁の内側とは思えぬほどに。
 けれどここもやはり宮の中なのだーーそう名前に突きつけるのは、やはり武王だった。

「……っ」

 声がする。そう思った瞬間、思わず名前は身を隠していた。それは性のようなもので深く考えた結果の行動ではなかった。
 最初に見えたのは揺れる旗袍。聴こえたのは彼の声。気心の知れた、とすぐにわかる声色で、彼は隣の女性と話している。
 邑姜と並び歩く姫発。そこにいるのは武王ではない。王としての威厳だとか体面だとか、そうしたもののない気安さで彼は邑姜に接している。邑姜も、また。
 限界だーーそう、思った。
 けれど心とは反対に体は動かない。足は縫い止められ、逃げることも敵わない。
 いくら庭が広くたって限界はある。立ち止まった名前と歩き続ける武王。距離が縮まれば、見つかるのは容易い。

「名前!」

 ーーあぁ、やっぱり。
 姫発は名前を見つけると駆け寄ってきた。「探したぞ」そう言った彼の目には翳りがない。それは邑姜との関係をなんとも思っていない証で、気に病む名前が間違っているのだと、正妃として正しくないのだと、痛感する。

「侍女の……なんてったっけか?まぁいいか、聞いたらお前は散歩に出掛けたって言うから」

「そうでしたか。ごめんなさい、ご迷惑をおかけしました」

 張りつけた笑みは不自然じゃないだろうか。選んだ言葉は今度こそ正しいものだろうか。
 姫発は気にした素振りを見せなかった。
 けれど邑姜は違う。元来察しのいい彼女はまたもや何かを理解したらしく、口を開きかけた。
 だが何も言わず、代わりに名前に目を向けた。気遣わしげに曇る顔。彼女は名前に顧慮し、身を引いた。その場で立ち止まり、近づくことをしなかった。
 その配慮が余計につらかった。名前には、できないことだったから。

「それで、ご用件は?とうとう……いえ、ようやくと言った方がいいかしら。側妾をお迎えになったのですか?」

 名前の心は千々に乱れていた。悲しさもあれば悔しさもある。脱力感もあるし、だからこそ捨て鉢にもなっていた。
 その言葉には棘があった。名前が意識しなくとも。吐き出されたそれは凶器のようで。向けられているのは姫発であるはずなのに、名前は己に突き刺さっているのを痛みから感じ取った。
 姫発はわかりやすく顔を顰めた。

「何を言ってるんだ」

 気分を害したとすぐにわかる。でも、だからどうだというのだろう。名前の現状が変わるわけじゃない。
 いや。
 いっそのこと、放逐してくれればいいとすら思った。名前に失望して、一息に殺してしまえばいい。そうすれば名前はもうこんな醜い自分を見ないで済む。
 武王だって、もっと相応しい正妃を迎えられる。

「どうしたんだよ。やっぱ疲れてんのか?」

「疲れている……あぁ、そうなのかもしれませんね」

「名前?」

 面白くもないのに笑い出したい気分だった。笑って笑って、それから、思いきり泣きたかった。誰にも見られない場所で。誰に憚ることもなく。思いきり泣いて、泣いて、洗い流してしまいたかった。
 名前は顔を上げた。真っ直ぐに武王を見つめた。
 変わらず胸は軋む。心には葛藤が残る。喉は凍てつき、指先は震える。
 それらを拳を握り締めることで殺し、名前は足に力を入れた。今度は倒れないように。誰に頼ることもないように。
 区切りを、つけるために。

「ーー側妾を、お迎えくださいませ」

 名前は言った。殊更に静かな声で。
 風は止み、空気が凪ぐ。静寂は武王が息を呑むのを名前に伝えてくれる。「冗談だろう」そう言った声が孕む怒気さえも。

「いいえ、冗談などではありません」

「ならなんで!!」

 武王の叫びが空を裂く。怒りに揺れる目が、炎が、名前を焼き付くさんと睨み据える。
 それと対峙しても、名前の心は揺らがなかった。
 先に怯んだのは武王だった。「なんでだよ」もう一度溢れたそれはひどく弱々しい。

「わたしは器ではなかった。それだけのことです」

 名前は笑みすら浮かべることができた。
 もう待つのはたくさんだった。いつ彼が房室を訪れるのか。ーーいつ彼が、訪れなくなるのか。そんなことを考えるしかない日々。
 今はまだ空の房室も、いずれは女人で埋まるだろう。周の土地は広い。そして統治者としては欠かせない婚姻。名前が花の一輪に埋没するのも時間の問題だった。
 それを待つくらいならいっそのこと。そう思ったから、名前は側妾を迎えることを提案した。自分よりもっと優秀なーー武王に相応しい妻を。
 そうすれば名前も諦めがつく。叶わない願いなど、無謀な夢など、抱かずに済む。

「それ以上言うな」

 言わないでくれ、頼むから。
 武王は言い、よろめきながら足を踏み出す。
 一歩、隔たりを越え、手が伸びる。

「名前、俺は、」

「やめて!!」

 触れる、刹那。
 女人を追いかける姫発の姿が脳裏に過った。
 そして名前の口はひとりでに叫んでいた。拒絶の語を。
 名前は胸を押さえる。痛くて、苦しい。それは武王の強ばった顔を見ているとより一層強くなった。

「…………っ」

「、待て!」

 名前は駆けた。逃げ出した。武王から。姫発から。正妃である、自分から。
 淡紫の襦裙が翻る。肩にかけた披帛が落ちそうになる。長い 裳に足が絡めとられる。
 それでも名前は駆けた。どこへ行くともなく。ただただ遠くへ行きたかった。ここではないどこかへ。
 けれどここは掖庭宮で、名前はここから出られない。それは変えようもない事実で、名前は回廊の片隅で蹲った。
 どれくらいそうしていたろう。

「……名前さん」

 背中に温もりが被さる。人の、温もりが。その体も声も柔らかく、名前の体から力が抜けていく。

「ごめんなさい、ごめんなさい、邑姜さん、」

「大丈夫、大丈夫ですよ」

 いつかと同じように邑姜は名前を慰める。
 背後から名前を抱き締める邑姜。その温かさは太公望のものと似ていて、名前は自然と口を開いた。

「わたし、わたし、ダメなんです、もう。もう、我慢できない」

「……はい」

「さっき、だって。姫発さまは間違ってないのに。王が複数の妻を持つのは当然なのに。なのに、わたし、」

 ーー他のひとに触れた手でわたしに触れないで。
 そう、思ってしまった。正妃として望んではいけないのに。名前は花の一輪でしかないのに。分不相応な願いを、口にしかけた。
 名前は顔を覆った。そうしても溢れ出る涙は止まらない。嗚咽も。決壊したように、溢れて止まらなかった。
 邑姜は名前を責めなかった。ただ静かに名前に寄り添った。
 そして名前が落ち着く頃に、そっと切り出した。

「私、伝言を預かっているんです。ーー太公望さんから」

 続く言葉に、名前は目を見開く。
 縋ってはいけない。これ以上、泥を塗ってはならない。
 そう頭ではわかっていても、その誘惑はあまりに甘美で。

「……行くわ、わたし」

 邑姜は止めなかった。ただそっと、名前を抱く手に力をこめた。