正妃の想い


 元宵節。その日は早朝から浮き足立っていた。市井の民も、掖庭宮の住人も。
 華やいだ空気に、かしましく囀ずる娘たち。少女たちの顔は祭りの気配に色づいていた。
 それは日が暮れると一層明らかなものとなった。

「名前さまもご実家へ帰られるのですか?」

「ええ、こんな時でないと会えないでしょう?だから、やっぱりね」

「ですよね、私も久しぶりに家族に会うのが楽しみで」

 名前つきの侍女は何を察することもなく、明るい顔で語る。名前が何を考えているかなんてーーもう掖庭宮に帰るつもりがないことなんて知らずに。
 屈託のない笑顔を見ると胸が痛む。だが、名前が逃げたとしても関わりの薄い彼女たちが責められることはないだろう。
 武王は横暴な人ではないしーーそう考え、また息苦しくなった。
 考えてはいけない。武王のことなど。名前がいたってなんの益ももたらせないのだから。
 けれど彼は追うだろう。その本心がどうであれ、正妃の逃亡など許されるはずがない。追捕のために多くの人員が割かれるのは確実だ。
 それを思うと良心は痛む。だが名前はもう決めてしまった。邑姜にもその旨は伝えてある。
 だからーー

「あの、本当にいいんですか?せっかくお方様が御自らお作りしたというのに……」

「……いいの、武王さまはお忙しい方だから」

 また別の侍女が訊ねてくる。今度は名前が作った湯圓について。
 先刻作ったばかりの湯圓。それを名前は宦官に渡した。武王に、と。
 どうしてそんなことをしたのか名前自身定かではない。餞別のつもりか。それとも、彼を想っていた証を残したかったのか。
 わからないけれど、自分の手で直接渡す勇気はなかったし、彼が掖庭宮を訪れる気配もなかった。きっと今夜は彼も市井に降りるのだろう。忙しさに追われ、名前のことなど忘れ去ってくれればいい。
 名前は被衣を被り、布で包んだ小さな荷を持った。中には厨子の奥底で眠っていた胡服が入っている。かつては毎日のように着ていたものを名前は持ち出すことにした。旅には今の服はーー正妃として身に纏う襦裙は向いていない。金の刺繍も朱の花も華やかすぎる。
 他にはほんの少しの装飾品が詰めてあった。旅先で路銀に変えられることを考えたためだ。
 それ以外には何もない。多くを持って旅に出ることはできないし、ーー何より、ここを思い出すものなどひとつとして持って行きたくなかった。思い出にするには時間が足りず、切り捨てるには想いすぎていた。

「さ、そろそろ出ましょう」

 名前は侍女たちを促し、連れ立って門へ向かった。掖庭宮から外へ通じる道へと。
 門番は名前が通ってもなんの疑問も抱かなかった。ほんの少し緊張していた名前は、呆気なさに拍子抜けした。あれほど高い壁だと思っていたのに。
 意外だったのはそれだけでない。
 町に降りた。それなのに、名前の胸は喜びに沸き立つことがなかった。焦がれていた。夢に見るほど。けれど感じるのは空虚感で、思わず足が止まる。
 夜を迎えた町はしかしそこここに灯された燈籠のせいで眩しいほどであった。人々の浮かべる笑顔はさらに目映く、立ち止まった名前を気に止めることなく抜き去っていく。

「……行かなきゃ」

 己に言い聞かせるように名前は声にした。
 そうして人混みの中を歩いていく。
 見世物に上がる歓声。雅な楽の音色。そうしたものを掻き分け、名前は道を急ぐ。

『私、伝言を預かっているんです。ーー太公望さんから』

 そう言った邑姜は、太公望の代わりに語った。

『元宵節ならば名前さんも外に出られます。ですからそのまま鎬京の門まで行ってください。そこから先は太公望さんが連れていってくれます』

『先って』

『先です。太公望さんの歩む、途方もない旅路に』

 名前を、連れていってくれる。そう、太公望は言ったという。
 俄には信じがたい。けれど。

『……行くわ、わたし』

 名前はそう答えていた。
 耐えられなかった。もう。王を待つだけの日々に。醜い己と向き合う日々に。

 町の中心は歩くのも一苦労といった具合の混みようだった。
 しかしそれを過ぎれば人の姿はあっても掻き分けねばならないほどではなくなる。
 そして鎬京の門に着く頃にはそれも疎らなものとなった。

「…………」

 名前の前に聳え立つ壁。都を囲った城壁。
 この先に太公望はいる。この先なら、名前は自由になれる。
 わかっている。わかっているからこそ、躊躇した。
 ここを通ればもう戻れない。武官であった名前にも、正妃であった名前にも。ーー彼に焦がれる今も、過去になってしまう。
 その躊躇いがいけなかった。

「え……っ」

 不意に視界が傾く。
 ーーいや、そうじゃない。
 そうじゃないのは、自分の体に回る腕の温もりから、倒れ込んだ後頭部にぶつかる感触からわかった。
 背後から抱き寄せられたのだと名前が理解する前に、震える吐息が名前の耳朶を擽った。

「……行かないでくれ」

 圧し殺した声。より一層きつくなる拘束。
 驚きに、名前の心臓が跳ねる。姫発さま。そう呼ぶ声すら舌の上で溶けてしまう。
 けれど姫発には届いたらしい。彼は息を呑み、唇を噛む。名前、その囁きは弱々しく、町の遠い喧騒にさえかき消されてしまいそうで。
 なのに。それなのに。

「ーーすきなんだ」

 名前が、ずっと好きだった。
 そう吐露する声は真っ直ぐ名前の耳に飛び込んでくる。欠片も漏らすことなく、拾い上げる。
 名前は世界が滲むのを感じた。けれどその世界が何よりも美しく色づくのを確かに目にした。

「……待っていました、ずっと。そう、言ってくださるのを」

 この時名前は悟った。名前が本当にほしいもの。それは自由でも未来でもなく、その言葉だけだったのだと。ただその言葉だけを、求めていたのだと。
 体の内が焼けつくようだった。胸は今までにないほど甘やかに締め付けられ、言葉は熱に溶かされていく。頬には涙が伝い、体は抑えようもないほど震えていた。
 その衝動のまま、名前は姫発に向き直った。
 軒先に吊るされた燈籠。その灯りに照らされた姫発の顔。その艶やかな黒髪も意思の強い瞳も涙に濡れる頬も。すべてが愛しかった。すべてが愛しくて、手放したくないとーー手放せるはずもないと思った。

「好きです、姫発さま。あなたが、好き」

「名前、」

 何事か言いかけた姫発の唇を封じる。宮に入ってからは幾度となく繰り返された行為。そのはずなのに、触れただけで名前の胸はさざめいた。波が押し寄せるように、心に愛しさが満ちる。
 どうしてあなたがここにいるのか。どうしてその言葉を今の今までくれなかったのか。
 言いたいことも聞きたいことも沢山あった。
 でも。

「……俺はもう、手放せない。だからどこにも行くな。出ていくなんて言わないでくれ」

「……わたしも。いいえ、わたしだって、手放せない。だからどうか、わたしだけを見て。わたしだけの、あなたになって」

「あぁ、約束する」

 今はまだ、このままで。
 初めて触れることのできた温もりをただ感じていたかった。