妹弟子は逆らえない
いつもと同じ朝だった。
けれど予感はあった。なにがしかの、予感が。
それは"これ"を指していたのか、と。名前は遠ざかる崑崙山脈を見送りながら思い出していた。
「突然すぎですよ、楊ゼンさま……」
名前は今、楊ゼンの宝貝、哮天犬の背に乗っていた。
そしてその主人、楊ゼンにしがみつきながら、名前はぼやいた。
ーー時が来た、と楊ゼンは言った。太公望師叔の力になる時が。
玉泉山金霞洞。名前の住み処になんの前触れもなく訪れた兄弟子はそう言って、有無を言わさず名前を担いだ。
驚きのあまり声も出ない名前を、しかし楊ゼンは気にしない。師匠も師匠で『いってらっしゃい』と呑気に手を振る始末。
お陰で名前が我に返った時には既に遅く。玉泉山金霞洞どころか崑崙山脈すら手の届かぬところにあった。
「嫌なのかい?」
結った髪を風に靡かせ、楊ゼンは振り返った。肩ほどにある名前の顔が翠の目に覗き込まれる。新緑の、涼やかな色。
「そうではありませんけど……」
それに見つめられると、うまく喋れなくなる。
「心構えというものがありまして……」名前は口ごもり、それでも頭を回転させた。
そうしてから、ようやく疑問にぶち当たった。
「というか、そもそもどこに向かっているのですか?」
そう。名前は知らない。
太公望の力になる。それはいい。いいけれど、名前は彼の居場所を知らない。
楊ゼンはそこで初めて「あぁ、」と声を上げた。そういえばそうだった。そんな声色で。
「言ってなかったっけ?」
「言ってないですよ!」
「あ、ちょっと。耳元であんまり大きい声出さないで、煩いから」
楊ゼンは耳を塞ぐ真似をした。名前はそこまで大きな声を出したつもりはないのに。
そうは思いながらも、名前はぐっと言葉を呑み込んだ。結局のところ名前は兄弟子に敵わないのだ。
だから声を落として、「それで、太公望どのは今どちらに?」と訊ねた。
名前に千里眼はない。世界を見通す宝貝もなければ、人間界を映す水鏡も金霞洞にはない。だから風の噂だけが頼りで、他の仙道からの又聞きの知識しか持っていない。
太公望が禁城で妲己と相対し、そして敗れたこと。その後朝歌を出て、放浪していること。そこまでだけが名前の知識だ。
「そりゃあもちろん西岐ですよ」
だからまさか、知っている名前が出るとは思っていなかった。
「西岐……」
「はい、西岐です。あなたの故郷の」
さらりと。楊ゼンはなんてことないように言い放った。
ーー西岐。そうか、西岐か。……西岐、ですって?
「西岐!?」
「だから耳元で叫ぶなって」
「いやいやいや」
名前は混乱していた。
西岐。それは楊ゼンの言う通り名前の故郷にあたる。ほんの数年前、仙道に誘われるまでは暮らしていた邑。
豊かな邑だった。優しい人の住む邑だった。
けれど、今は。
「…………、」
西伯侯姫昌が朝歌に幽閉され、その長子は妲己の手にかかって殺された。
それを名前が知ったのはつい最近のことだった。
玉鼎真人が口止めをしていたのだ。名前の修煉の邪魔にならないように。ーー名前が、傷つかぬように。
師匠はずっと、待っていた。待ってくれていた。名前が大きくなるのを。現実を知って、それでも受け入れられるだけ強くなるのを。待ってくれていたのだ。
「でも、どうして西岐に」
西岐はいいところだ。けれど封神計画を遂行中の太公望がどうしてそこにいるのか。
計画の真の狙いを知らない名前からしたら驚くのも無理ない。
「……さぁ、どうしてだろうね」
なのに楊ゼンは微笑みで疑問を交わした。
からかわれてる。遊ばれてる。名前にはすぐにわかった。伊達に10年妹弟子をしていない。
楊ゼンは笑った。無言で口を尖らせる名前を気配だけで察したのだ。
そんな風にひとしきり楽しんだあとで、「着いたら教えてあげるよ」とやっと約束してくれた。今度は嘘のない語調で。
「絶対ですよ、約束ですからね」
「はいはい」
そんなことより、と楊ゼンの視線が流れる。その背にしがみついた名前にはほんの少ししか距離がない。だから、翠の目に簡単に呑まれる。呑み込まれる。
「今を楽しみなよ、こういう時でもないと見られない景色だろう?」
君は修業ばかりしているから。
自分のことは棚に上げて、楊ゼンは言う。広大な空の中。その中でも一際輝く翠の瞳が名前を導く。
ーー世界へと。
「……っ!」
眼下に広がる世界。どこまでも続く景色。
池で水を飲む鹿が見える。実のなった果樹園や赤茶けた荒野も。山間を流れる煌めく河から、緑揺れる草原。聳え立つ城壁に、その中で暮らす人々。それから、果てに広がる海すらも。
「来て良かったろう?」
「ええ……」
名前は眩しさに目を細めた。
知らなかった。世界が、地上が、これほど美しいことを。命で溢れていることを。
「ありがとうございます」その言葉に、楊ゼンは何も答えなかった。
けれど風に紛れたわけじゃないのはわかった。彼の腹に回した手に温もりが重なったから。
名前は眼前にある背に頬を寄せた。そうしたって彼の心も心音もわかりはしない。
なのに名前は行動した。風に流されたように。彼の背に身を預けた。そうするのが自然だと思った。名前のいるべき場所はここなのだと直感した。
そして、こんなにも世界が美しく見えるのは彼といるからなのだとも理解した。
そうでなければ説明がつかない。
10年前も同じように崑崙へ向かったはずなのに、その時の感動を覚えていないことへの、説明が。
ーー胸が高鳴るのに、同時に安息を覚えるのは、彼以外他に知らない。
二人ともが口をつぐんだ。静寂。風を切る音だけが耳でする。
なのに苦痛は欠片もない。代わりに溢れるのは多幸感。名前はこの静寂すら輝いて見えた。
そうして地上が近づく頃。
名前は寂しさを感じていた。祭りのあとの寂寥。生まれた空虚に、名前は思わず溜め息を吐いた。
それにすかさず楊ゼンは問いかける。どうかしたかい、と。
さすがに心そのままを口にするのは憚られて、名前は少し躊躇った。
「羨ましいな、と。楊ゼンさまには哮天犬がいて」
躊躇い、考えてから、一端だけを言葉にした。
半人前の名前に多くの宝貝を操ることはできない。使い慣れたそれ以外では精気を吸われて終わりだ。
だけど、いずれは。
いずれは、楊ゼンのように。自分で宝貝を生み出してみたい。たとえば、そう、名前なら犬よりもーー
「名前には必要ないんじゃない?」
「え?」
「だってほら、僕が哮天犬を貸してあげればいい話だろう?」
楊ゼンはなんてことないように言う。とても彼の宝貝の話をしているとは思えない気安さで。
名前は眉を下げた。
もちろん哮天犬に乗れるのが一番いい。そうすれば楊ゼンともいられる。けれど、
「でも楊ゼンさまに頼りきりというのは、」
「名前」
遠慮した名前を止めたのは楊ゼン本人だった。
名前を呼んだ。それだけなのに、名前はぴくりと固まる。
楊ゼンは、にこりと笑った。
「僕がいいと言ってるんだ。それでも異論があると?」
笑顔だった。顔も、声も。
なのに選択権が見つからない。彼の表情と言葉には不思議なほどの強制力があった。
だから名前は首を振った。無論、横に。「異論なんてないです」そう言って、ようやく空間に張り巡らされた糸が弛む。
「そう、よかった」
何がよかったのか。
聞くのが怖く思える笑顔。ここでも名前は本能に従って、余計なことは言わないでおいた。