殷の公主、叶わぬ夢を見る
それは突然のことだった。
ある日突然、なんの前触れもなく妲己は消えた。朝歌から。なんの痕跡も残さず。
「いったいどうなってるというの……」
紂王がそのお心を取り戻した。
聞太師の右腕、張奎から届いた文。そこに書かれていたことを直接確かめてきた名前は、自室で頭を抱えていた。
ほんの少し前は確かにいた。妲己も彼女の妹たちも、その手下の妖怪仙人も。我が物顔で禁城を闊歩していた。
しかし趙公明とかいう頭のネジが2本も3本も外れた仙人と共に朝歌を旅立った後ーー妲己は行方を眩ました。人々の記憶からもその存在を消し去って。
ーーわたしはなんのために降嫁までしたのかしら。
妲己が真実消えたのであればその必要もなかったということになる。いずれは嫁する身とはいえ、なにも道化に嫁がなくたってよかった。
けれど、過ぎたことは今さら取り返せない。
「お困りのようですね、公主」
名前はもう受け入れるしかないのだ。悩んでいる妻を見てニヤニヤ笑うだけのこの道化と共に生きることを。彼の手をとってしまった時点で、これは変えようがない。
たとえ、名前が誰を想っていようと。
「助ける気がないのならせめてここから出ていってくださらない?あなたのその派手な格好は視界にあるだけで気が散るのだけれど」
「私がいようといまいとあなたが答えに辿り着けるとは思えませんけどねぇ」
ーーああ言えばこう言う。
名前は青筋を立てた。けれどここで感情を露にしては道化の思う壺だ。
「……結構。あのような鴟梟の考えなど理解したくもありませんから」
名前は顔を歪めることも声を荒げることもしなかった。それでも口端が震えるのだけは抑えられない。まったく、腹立たしい限りだ。
しかしその彼に助けられたのもまた真実で。名前は申公豹に逆らうことができない。
「そうそう、近々聞仲がこちらに帰ってきそうですよ」
彼が、名前の反応を見て楽しんでいるのだとしても。名前を傷つけて、痛めつけて、そのためだけに名前を連れ出したのだとしても。
「帰ってきたら挨拶をしなくてはなりませんね。ねぇ、公主?」
「……ええ、そうですね」
きっと聞太師は怒るだろう。それか悲しむか。
ーーあなたは殷の公主なのだから。
それが彼の口癖だった。名前を叱るときも、名前を褒めるときも。いつだって彼は"殷の元公主"を見ていた。公主は公主でしかなかった。
それが、今ではどうだ。
妲己から逃げ出し、なんの益も殷にもたらさぬというのに仙道に嫁いだ。
聞太師は幻滅するだろう。
それはあまりに容易く想像できて、自然名前の声は沈鬱なものとなる。
それを、申公豹は目を細めて観察していた。
「……大丈夫ですよ、聞仲が怒りを向けるのは私にだけでしょうから」
「どうしてそう言えるの。わたしだって彼の期待を裏切ったというのに」
ーーあなたに何がわかる。
そんな気持ちで申公豹を睨み据えた。
公主が聞太師と過ごした時間。それは彼にとったらほん一瞬で、星と人とも感覚が違うものだろう。
けれどかけがえのない絆で結ばれていたと。たとえ"殷の公主"としてだけでも、彼に思われていたと。
申公豹などよりよほど彼のことを知っている。その自信が名前にはある。
なのに、道化は笑う。
「……あなたにも知らない聞仲の顔がある。それだけですよ」
意味深長に。何もかもを見透かす目で。道化は、嘯く。
「わたしが知らない……?」
「ええ、あなたの知らない。いえ、もしかすると彼自身も気づいていないのかもしれませんけど」
道化の話は要領を得ない。
聞太師の真っ直ぐな言葉しか知らない名前は眉をひそめた。
からかわれている。そう断じて無視するのは容易い。
が、本当にそうしてもよいのだろうか。
名前には迷いがあった。所詮は人の身。仙道にしかわからぬこともあるのかもしれない。
……それは、ひどく胸の痛む話ではあるが。
「だとしても、彼がよく思わないのに変わりはないわ」
「それはまぁそうですね、避けようがありません」
「ならばやはり気の重い話ね」
姿を消した妲己のこと。帰還した聞仲との再会。頭の痛い話は名前の前に山積していた。
「……このまま、時が止まればいいのに」
目を閉じても瞼の裏に浮かぶ。先刻見た紂王のーー父の顔を。
久方ぶりに見た、懐かしい父の顔。賢王として名高かった頃の王の顔。もう二度と取り戻せないと、そう諦めていた理性的な目。
相対した後から、名前のなかには迷いが生じていた。
ーーもしかしたら、殷は滅びずに済むのかもしれない。
失ったもの。喪われたもの。それはあまりに大きいけれど。
それでも紂王とーー聞太師ならば建て直せるんじゃないかと、なくしたはずの希望を抱いてしまう。
また、あの頃のように。妲己が来る前の穏やかな日常に。
ーー聞太師を慕っていた頃の、純粋な自分に。
「……無駄ですよ、公主。坂を転がる石が止まることなどあり得ない」
帰れるかもしれない、と。
そんな儚い夢を、道化は一声で打ち砕く。夢を夢として終わらせる。
名前は目を開けた。
申公豹は笑っていなかった。真剣な目で、公主を見ていた。
ほんの少しの憐れみを宿して。
「……わかっているわ」
それでも夢の残滓は心に染みついて離れなかった。