道化と太師


 申公豹の存在を認めた途端、顔を背けるか見なかったことにするか。そのどちらかが殷の太師、聞仲の常であった。関わりたくない、彼の申公豹への思いは一貫してそれだった。
 けれど。

「どういうつもりだ、道化」

 この時ばかりはーー長らく留守にしていた朝歌に帰還した時は、違っていた。
 金鰲島で受けた仕打ち。それに気が立っていたのもまた事実だろう。
 けれどそれだけではないのを申公豹は見抜いていた。

「どういう、とは?」

「とぼけるな。張奎からすべて聞いた」

 ーー元公主をどうするつもりだ。
 その眼差しも声色も彼の宝貝を思い出させる。鋭さ。抜き身の刃のような太師を前に、申公豹は眉を上げた。
 這う声は蛇蝎のごとく。回廊に立つ聞仲と禁城の空に在る申公豹とでは距離があるというのに。
 声は地を這い、申公豹の体にまとわりつく。迸る怒りは目に見えるほどのものだった。
 ーーまさかこれほどとは。
 正直、見誤っていた。聞仲の殷に対する思い入れの深さ。加えて、元公主へは彼自身の想いもある。拗らせた、愛情が。

「元公主には手を出すなと言ったはずだが」

「ええ、ですから彼女は変わらず清いままですよ」

 申公豹なりの冗談。だが今の聞仲には通じるわけがない。
 聞仲は微動だにしない。声を荒げることも。
 しかしその気迫だけで彼の回りの床板だけ戦いの後かのように割れ、砕け散る。申公豹のたった一言で。

「貴様は元公主を愚弄するつもりか?」

「いえいえまさか。私なりに敬意を払っておりますよ」

「信用ならんな」

「ならばご自分の目で確かめればいい」

 その時初めて聞仲の目が揺れた。ほんの微かに。けれど申公豹は見逃さなかった。見逃さず、笑った。
 間違いない。聞仲は恐れている。
 元公主が自分から離れていくことを。ーー武成王の離反と重ねて、恐れている。名前までもが自分を裏切るのかと。名前までもが自分以外の誰かを選ぶのかと。

「……いや、公主の判断を信じよう」

 そう考えるくせ、真実を知ることから逃げている。
 だから、申公豹はさらに言葉を重ねた。にやにやと、笑いながら。

「おや、良いのですか?私が公主を無理矢理我が物にしたのかもしれないのに」

「貴様……!」

 あるのは怒り。それだけだ。
 申公豹の挑発に聞仲は容易く乗った。冷静ではない証だ。今の彼は、ひどく脆い。
 もしかすると、名前でも手をかけられるほどに。
 「冗談ですよ」申公豹は笑い、煙に巻く。きっと彼の夢は潰えるのだと予感しながら。
 聞仲は宝貝を出すことまではしなかった。しなかった、けれど。

「太子だけでなく公主にまで手を出すようなら容赦せん。妲己より先に貴様を片づけてくれよう」

 その目は、眼差しだけで人を射殺せそうだった。その奥で燃える炎は禁城を焼きつくしてしまいそうだった。
 ここまで感情を露にしている、というのに。

「あなたはまるで自分の本心に気づこうとしない……いや、気づきたくないのか」

 あくまで聞仲は彼女を"殷の公主"として扱う。自分は殷の太師で、彼女は殷の公主で。そうやって線引きして、見なかったことにしている。
 だから「なんの話だ」などと平気な顔でしらばっくれることができるのだ。本人に自覚がないというのは本当に質が悪い。

「いいえ、なんでも」

 そう答えながら、申公豹はほんの少し名前を憐れんだ。
 ーーかわいそうな公主。きっとあなたが太師と再会することはないでしょう。

「公主は平穏無事。むしろ後宮にいた時よりのびのびしている。そう、あなたも腹心から聞いているのでは?」

「……そうだな」

 そう口では言いつつ、聞仲の顔には痼が残る。
 聞仲は腹心である張奎が嘘偽りのない人柄だと知っている。だから彼の報告もーー公主が妲己の手を逃れ、束の間の平穏を手にしたということも真実なのだろう。
 なのに、聞仲の心中は穏やかではない。いや、むしろ彼女が掖庭宮にいた時よりずっとーー

「何を笑っている」

「私はいつもこんな顔ですよ」

「……そうだったな」

 聞仲は鼻を鳴らした。申公豹自身のことには興味がない。それが伺える反応だった。

「私は誰のことも……無論貴様のことも信用していない。だから公主を任せる気にもならない」

 そう、彼は申公豹のことなどどうとも思っていない。自分の邪魔をしなければ視界にすら入らない。それくらいには。
 けれど、元公主が絡むとなると話は別だ。

「だが、公主のことは何より信じている」

 聞仲は改めて申公豹に向き直った。
 真っ直ぐなーー真っ直ぐすぎる男の目は、公主のそれとも似ていた。似ていると、申公豹は思った。

「それを本人に伝える気は?」

「必要ない。……公主はわかっている」

「聞仲、それは傲慢というものですよ」

 申公豹が手を貸してやる義理はない。聞仲にも、名前にも。
 ただ名前のことはそれなりに気に入っていた。面白い人間だと。それになくすには惜しい才が彼女にはある。申公豹は公主のことを妲己から奪い去るほどには評価していた。
 だから、これはそんな名前への礼だ。ここ暫く、停滞していた世界で申公豹を楽しませてくれたことへの。
 ーーなんて、理由をつけて。

「名前は待っています、あなたを。あなただけを、今も」

 ーー別れの挨拶くらいはさせてやるべきだろう。
 申公豹にしては珍しい気紛れ。真剣な言葉に、さすがの聞仲も何かを感じ取ったのか。
 先刻までの険を潜め、押し黙った。

「……考えておこう」

 けれど聞仲は答えを出さなかった。彼自身の中にも、そしてもちろん申公豹にも。答えを出すことなく彼はその身を翻した。
 去っていく背に、申公豹は溜め息を吐く。

「拗らせた者ほど面倒なものはないでしょうねぇ……」

 ーーさては公主、男の趣味が悪いな。
 名前が知ったら怒りそうなことばかりを考えながら、申公豹も禁城を後にした。