妹弟子、師に教えを請う
殷の太師、聞仲。その強さは耳にしていた。けれどあれほどの戦力差があるとは想像していなかった。
甘かった。無知だった。結局のところ、名前は何も知らなかったのだ。封神計画がどれほど困難なものかを。
だから、
「……っ」
雑念混じりの剣は容易く弾かれ、名前の手の届かぬところまで投げ飛ばされた。
名前としては地に突き刺さったそれを取りに行きたい。しかしその間に対戦者ーー師である玉鼎真人の剣がこの身を裂くだろう。その予見は像となって名前の目に浮かんだ。
もはや、打つ手はない。
「……参りました」
頭を垂れた名前に、師の静かな声が降る。
「私は必要のないことを口にするつもりはない」
言いたいことはわかるな。
そう、言外に問われた。
師の声に怒りはない。それでも名前は沈んだ声で「はい」と答えた。剣を交えたのだから当然のことだが、師には名前が雑念に囚われていることなどお見通しだった。
だからこその言葉に、名前は一層身を縮こまらせる。
先の四聖との戦い。その最中に名前たちの前に降り立ったのが道士、聞仲であった。
彼は圧倒的な力でもって名前たちを封じた。太公望が庇ってくれなければ、聞仲に情けをかけられかければ、名前はあそこで死んでいた。
いや、それは何も名前だけのことではない。天化もナタクもーーそして、楊ゼンも。
名前が憧れた人すら聞仲には敵わなかった。
だから、名前は、
「悔しいか」
師の声が落ちる。名前に。名前の中に。
音を立てて、落ちて、
「くやしい、です……!」
はらはらと落ちるそれが地面に染みを作る。ぐずぐずに溶けて、決壊する。名前の心も、涙腺も。
塞き止められていたものが、張りつめていた糸が、師の剣で裂かれ、こぼれ落ちる。
そのひとつを玉鼎真人は掬い上げ、名前に問う。何故、と。
名前の師は膝を折り、名前に目線を合わせて、静かに問いかけた。穏やかな声で。柔らかな目で。
だから名前は自然と言葉にした。声に出すことができた。
ーー何も知ろうとしなかった自分が、何より悔しいのだと。
「わたし、思い込んでいたんです。楊ゼンさまなら……楊ゼンさまがいれば平気だって。楊ゼンさまは誰にも負けないって。そんなの、」
勝手すぎる。
妹弟子、失格だ。
憧れることと盲信することの違いくらいわかっていたはずなのに、今の今まで気づきもしなかった。考えることすら。
「信じるって聞こえはいいけど、でもわたしのはそんなキレイなものじゃない。だって、わたし、きっと楊ゼンさまの重荷になってた。楊ゼンさまに全部押しつけてた。だから、わたしは、」
ーー楊ゼンに、会わす顔がない。
彼がそれを気にする素振りを見せたわけじゃない。ただ、名前が勝手に居心地悪く感じて、避けているだけだ。
今だって。
今だって、楊ゼンと離れてひとり、師の元へ帰ってきている。その事実もまた、名前の心を重くした。
「ごめんなさい、お師匠さま……、名前はまだまだ半人前のようです」
ここに在ることすら玉鼎の名に泥を塗っているような気がしてきて、名前は顔を歪めた。
本当は笑おうとしたのだけれど、筋肉がどうにもうまく動かなかった。おかげでずいぶん不格好なものになってしまったろう。
微かに玉鼎の眉が下がったのを見てとって、名前はより一層弱った。
どうしてうまくいかないのだろう。迷惑をかけたいわけじゃないのにーー
そう考えた、刹那。
「名前、」
玉鼎の手が、名前の頭の後ろに回る。それに名前が反応するよりも早く、けれど優しい手つきで、引き寄せられる。玉鼎の腕の中へと。
「玉鼎さま……?」
困惑する名前を他所に、玉鼎は笑む。
「懐かしいな」昔はよくこうして眠ったものだ。
そう言って、師は名前の頭を撫でる。彼の言う昔ーー仙人界に来たばかりの頃、慣れない生活に寝つけずにいた名前をあやしてくれた時と同じように。
「名前、お前はあの頃と少しも変わらない。純粋で、優しい、自慢の弟子だ」
「そ、れ……は、」
名前は目をさ迷わせ、口ごもる。
「恐れ多い、です……」
肯定するのも否定するのも具合が悪い。居たたまれなさから身じろぐ名前に、玉鼎は笑みを深める。
「そういうところも変わらないな」
と。
「だがお前がそうであるから楊ゼンは救われているのだろうな」
「え……?」
言っている意味が、わからない。見当すらつかない。
思わず顔を上げた名前に、玉鼎は曖昧に笑むばかりであった。
ただ、ひとつ。ひとつだけ、師は名前に答えを与えた。
「確かにお前は兄弟子を盲信していたかもしれない」
だか、本当にそれだけだったのかーー?
「もう楊ゼンが勝てる見込みはないと思うか?」
名前は一度目を閉じた。目を閉じ、己に問いかけた。
自分は今、楊ゼンをどう思っているか。
ーー答えは、明白だった。
「……いいえ」
今度は玉鼎の目を真っ直ぐ見ることができた。
だって、名前には自信がある。ずっと兄弟子を追いかけてきたからこそわかるものが。
「今は敵わないとしても、楊ゼンさまならば必ず超えられます。それに……今は、仲間がおりますもの」
太公望。
名前は彼のことをずっと敵視してきた。兄弟子を奪うものだと。
でも、今はその才を、人となりを知っている。そして、彼の元に集い始めた者たちのことも。
玉鼎はその答えに満足したようだった。
「もう大丈夫だな」
とひとり頷き、名前を立ち上がらせた。
そうしてから、またその頭に手を置き、「忘れないでやってほしい」と真剣な様子で口を開いた。
「楊ゼンを信じる、その心を。それはきっと、あの子の力になるだろうから」
この時の名前には師の言葉の意味もその真意も推し量ることができなかった。
だから内心首を傾げつつ、それでも否定する材料など何もないーー名前の中ではごく当たり前の感情に従って、首肯した。
「それは、もちろん。だって楊ゼンさまを信じるなと言われたら、わたしの世界は引っくり返ってしまいますもの」
「あぁーーそうだな」
それなら安心だ、と微笑むその顔は本当に安堵で満たされていて。
彼が真に楊ゼンの父代わりなのだと名前は改めて痛感した。