殷の公主、初恋と永訣する
その日、名前は庭院に出ていた。
明確な目的があったわけじゃない。けれどそうしなければならないようなーーそんな気がした。
これは予感だろうか。それとも運命の導きだろうか。いずれにせよ、何かに引き寄せられる感覚だけはあった。
その流れに身を任せ、名前はぼんやりと桃の木を見上げていた。
朱に染まった花。その側でくらいは清らかにあれるだろうか。この邪気に包まれた都であってもーー。
そんなことを考えていた時だった。
「……っ」
ーー風が、吹いた。
披帛を押さえねばならないほどの強い風。勢いに、名前は思わず目を瞑った。
そうして広がる暗闇のなか。
一瞬、ひとつの匂いが香った。懐かしい、匂いが。
「聞太師……?」
そう声にするのと目を開けるのと、どちらが先だったろう。
懐かしい、土埃とほんの少しの墨の匂い。
声が震える。けれど、目だけはしっかりと眼前に立つ人を捉えていた。
胡人のような金の髪。険しさの奥で優しさの滲む瞳。殷を支える強靭な身体。
「……お久しぶりです、元公主」
そして、愛情に満ちた穏やかな声。その低い音色に名前の心は掻き乱される。掖庭宮で息を殺していた頃が嘘のように。
「ご無事、だったのですね……」
言いながら、何を馬鹿なことをと嗤う。そんな自分も確かにいる。けれどそれ以上に沸き上がる喜びを抑えられない。抑える術を、名前は知らない。震える声の止め方も、脈打つ心臓の抑え方も。弛む涙腺の、止め方も。
「公主……、」
男が手を伸ばす。武骨な指先が触れる、刹那。
男は唇を噛んで、その手を止めた。名前の頬に触れることなく。
「……元気そうで、よかった」
それだけを確認しに来たのだと、男は言う。他に言うべきこともすべきこともないと。
男は言祝ぐこともしないくせ、それを止めることもなかった。名前が降嫁したことなど知っているだろうに。その相手が道化だとも聞いているだろうに。
何も言わず、名前から目を逸らした。
「……それだけですか?」
それが、ひどく歯痒い。
だから名前は太師を見つめた。真っ直ぐに。
恐れていた。彼に知られるのを。名前の勝手を知った彼に、失望されるのを。
でも、なかったことにされるよりはずっとマシだと思った。
だから、名前は挑むように彼を見た。
「わたし、結婚したんです。殷のためにならないってわかっているのに、申公豹に嫁いだんです。ただ後宮から逃げたい、それだけのために。それだけのために降嫁したんですよ、わたし」
「やめるんだ公主」
「いいえやめません。ねぇ、太師、こんなのは公主のすることではないでしょう?ならば叱ってください、あの頃のように。そうでないならせめて、」
「……やめろ!!」
名前は吐き出した。それこそ、血を、臓物を吐き出すような心地で。
そしてそれは、彼も同じだった。その絶叫は剣に貫かれたようだった。
それから彼は力なく言った。「私にそんなことはできない」そう言って、顔を覆った。肩を落とした男の姿は驚くほど小さく、頼りなかった。
それは名前の見たことのない姿だった。ひどく悲しげで、深い絶望を感じさせた。
なのに、名前は彼に触れることができなかった。そうなってようやく、先程の彼の躊躇いが理解できた。後戻りはできないのだと。それをまざまざと思い知らされて、また名前は泣きたくなった。
「……女狐のことで貴女にはずいぶんと悲しい思いをさせてしまった。この国を守ると、約したというのに」
暫くして顔を上げた太師の目は変わらず濡れていた。濡れそぼった目で、名前を見下ろしていた。
「貴女から、多くのものを奪ってしまった」
懺悔は血の味がした。
それは誰の血だろう。父のだろうか、母のだろうか。それとも兄弟のものか、国民のものか。それとも、それともーー
「太師のせいじゃないわ」
いずれにしても、彼に罪はない。少なくとも名前はそう思う。彼がいたからこそ殷はここまで生きてこれた。彼がいなければきっと、名前は。
心を落ち着けた今、名前に憎しみはない。恨みも、怒りも。ただ広大な悲しみだけが心の中で横たわっていた。
この道を選んだのは名前だ。名前自身が決めたことだ。だから後戻りができなくたって、誰を責めることもない。
ーー太師が、責任を感じることも。
「……だとしても、私は行かねばならない」
けれど彼は首を振った。
その目は静かだった。妲己のことで乱される前のように静かだった。
なのに、いや、だからこそ、嫌な予感がした。
「……何をなさると、」
「仙人界を壊す。そして仙人のいない人間界に変える」
そうすれば殷は蘇る。
太師は断言した。その目に宿る決意には一切の揺らぎもない。
彼もまた選択したのだと名前は理解した。後戻りのできない道を選んだのだと。
「でもそれじゃあ……あなたまでいなくなると言うの」
「まさか」
仙人のいない人間界。そう言ったのは彼自身であるのに。
彼は、名前の懸念を躊躇なく切り捨てた。笑みさえ浮かべて、否定した。
「私は殷の太師だ。どこにも行かん」
瞬間、名前は諒解した。
太師の矛盾に。綻びに。
そしてそれがきっと彼を滅ぼすのだろうと、なんとなくわかってしまった。
「……生涯。公主、貴女を守ると約束しよう」
だから跪く彼を見て、涙が一筋溢れた。愛しさと切なさが去来して、胸を締め付ける。
すべてを覚えておこうと思った。時が風化させようとも、記憶に根付くよう。すべてを目に焼きつけておこうと思った。
金の髪も実直な目も深い声も不器用な指先も。全部、全部、名前が愛しいと思うものすべてを覚えておきたかった。
彼は気づかない。膝を折った彼からは、名前の顔など見えはしないから。
だから、
「……信じております、わたし。だから、聞太師、」
ーー必ずや、勝利を。
顔を上げた彼に、笑顔を送ることができた。毅然とした態度でーー元公主として、彼を見送ることができた。
もう二度と彼と会うことはないだろう。そう、予感しながらも。