殷の公主、心中を吐露する


 どのくらいそうしていただろうか。
 不意に影が差し、名前はふと我に返った。
 桃の木の下、先刻まで太師がいたそこに今は道化が立っていた。彼にしては珍しく、側に黒点虎の姿はない。
 そしてまた驚くことに、彼はいつもの掴み所のない笑みを浮かべていなかった。憎らしいほど悠然とした態度はなりを潜め、彼はただそこにあった。

「……止めなくてよかったのですか」

 能面のような瞳。感情の一端すらそこからは伺えない。何を考えているのか。何を思っているのか。名前には察することができない。ーーどうしてそんなことを聞くのかも。

「あなたにだってわかるでしょう?矛盾を抱えた聞仲がたとえこの戦いに勝利したとしても」

 破滅の日は、近い。
 申公豹は最後まで言わなかった。言葉にしなかった。けれど、名前にはわかった。
 だって、名前も同じことを思ったのだから。

「……わかっています」

 名前は唇を噛んだ。
 会いたかった。本当に。彼がいたら戦いは終わらないと頭ではわかっているのに、心は太師との再会を願っていた。夢に見るほど、焦がれていた。
 なのに、再会した今の方が余程苦しかった。苦しくて、苦しくて、

「……わたしだって、止めたかった。行ってほしくなんてなかった。わたし、だって、」

 ーー言葉が、溢れ出す。
 太師の言葉が真実であると。その未来は確約されていると、信じたかった。
 でも、だからって。

「止められるわけ、ないでしょう……!」

 相手が申公豹だということも忘れ、名前は叫んでいた。
 握り締めた拳は震え、叫んだそばから口は嗚咽を漏らす。
 苦しい。どうしようもなく苦しくて、痛い。
 太師は帰らない。きっと。もう二度と、名前は彼に会えない。その瞳も声も姿も温もりもすべて、思い出へと変わっていく。
 記憶に根差せればそれでいい。
 ーーそんなの、はったりだ。
 太師の前では殷の公主でありたかった。最後まで彼を裏切りたくなかった。彼に、失望されたくなかった。
 ただ、それだけ。
 本当は、本当の名前は、ただ、

「好きだって、言ってしまいたかった……!!」

 とうとう名前の身体は頽れ、力なく地面に座り込む。公主としてはあり得ない行動だ。
 それでもどうだってよかった。もうここに太師はいないのだから。太師がいない今、名前が公主である理由もない。
 だから、襦裙が汚れようが申公豹に見下ろされようが、どうだっていい。

「でもそんなことできない。できなかった、わたしには。言ったって、彼は止まらないもの。意味のないことをしたってしょうがないわ」

 そんな心とは裏腹に、言葉は喉をついて出る。名前が胸を押さえても。とめどなく涙が溢れても。
 それがなんだか無性におかしくて、名前は笑った。笑いながら、申公豹を見上げた。

「太師は止まらない。わたしが何を言おうと。だって、だってわたしは"殷の公主"でしかないもの。わたしがいる限り、」

 彼は、夢を見る。
 殷の再興を。その血族の繁栄を。願って、しまう。
 でも、それなら名前の存在価値とはなんだったのだろう。
 名前さえ、殷の公主さえいなければ。守るべき血筋が絶えてしまったなら、その時は。
 ーー太師も、立ち止まれたのかもしれない。

「……馬鹿ですねぇ」

 最初、それが申公豹の声だと名前には認識できなかった。
 彼は相変わらず感情の読めない顔をしていた。けれど、その声は不思議と人間らしく聞こえた。人間らしい、呆れと憐憫と、ーーほんの少しの情が感じられる、声。
 ぼうとする名前の前に、申公豹はしゃがみこんだ。いつだって自身の美学を重んじ、こと服装に関しては拘りのある彼が。地面に、膝をついた。
 そして彼はその手を名前の濡れた頬にやった。その指先は道化らしく温度のないものであったけれど、手つきだけは名前にもわかるほど優しかった。

「そんなことを考えたって意味などないでしょう。過ぎた話も仮定の話も」

「……わかってるわ」

 申公豹の言うことは尤もだ。抵抗の余地のない正論。それは名前に頭から水をかけるようなもので、名前の意識も一気に冴えた。
 道化に弱音を吐くなんて間違っていた。そう頭を振った名前を、申公豹は静かに見つめる。

「……でもまぁ、よかったのではないですか?」

 え、と戸惑う名前に申公豹は笑った。
 ーー笑ったのだ。

「口に出すことで少しはすっきりしたでしょう?」

 申公豹がいなかったら。
 彼がいなかったら、名前はひとり。ひとりただ思いを巡らせていた。出口のない問いを、考え続けていた。もしかすると、永久に。
 申公豹が叱ってくれたから。
 申公豹が傷を裂いてくれたから。
 ーー名前は、泣くことができた。

「……そうですね」

 泣いている時はあれほど痛んだ胸も、今は静かに脈を打つ。涙も枯れ果て、頬には穏やかな風を感じた。
 ーーすべて、申公豹がいたからだ。

「わたし、初めてあなたがいてよかったと思ったわ、ほんの少しだけど」

「うーん、最後のは余計でしょう」

 申公豹はいつも通りに軽口を叩く。でも決して名前をバカにすることはなかった。嗤うことも、彼はしない。
 何もなかったかのように彼は名前を引き上げ、室へと向かう。

「さて今日は何をしましょうか」

 手を引かれながら、名前は初めて彼の手が大きなこと、そして存外力強いことを知った。

「わたし、あなたのこと何にも知らなかったのね」

「そりゃまぁ話してませんしね」

 話してあげてもいいですよ、と道化はからかうような語調で言った。
 いつもならここで名前は拒絶していた。結構です、興味なんてありませんから、と。
 でも、今は。

「聞いてあげてもいいですよ、太師が帰るまでわたしも暇ですから」

 そう言って、笑うことができた。
 悲しみはある。でもまだ終わったわけじゃない。まだ、太師が帰らないと決まったわけじゃない。
 それにたとえ彼が帰らずとも、名前にはまだ成すべきことがある。彼の代わりに、この地を平らかにするという役目が。
 それはきっと殷の公主である名前にしかできないこと。できるだけ平穏に革命を成功させる。武王に、次代を託す。
 それまではこの道化と共にあろう。それが申公豹の望むことであるのならば。