武官、迷宮に放り込まれる
息苦しさに目を覚ました時、名前の身体は砂の中に埋もれていた。
「……いつの間にっ!」
慌てて立ち上がろうとする。
が、「いたっ」頭を何かに打ち付け、それは叶わなかった。
よくよく見てみれば名前の周囲には透明な壁があった。頭がぶつかったのもそのせいだろう。
名前は、身体の半分ほどの大きさの透明な檻の中にいたのだ。
しかも檻の中には砂が積み上げられている。いや、現在進行形でその砂は嵩を増しているのだ。名前の頭の上、小さな穴から砂は絶え間なく降り注いでいた。
このままこの檻にいてはいけない。
時間が経ち、檻が砂で満たされたら名前は呼吸ができなくなる。緩やかな死。脳裏を過る言葉に、さぁっと青ざめる。
ーーこんなところで訳もわからず死ぬわけにはいかない。
名前は試しに透明な壁を叩いてみた。何でできているのか不明だが、ずいぶんと頑丈なのは手に感じる痛みからわかった。
「……でも、死ぬよりは痛くないわ」
名前は一度目を閉じ、深呼吸した。息を整え、神経を研ぎ澄ます。
そして。
「はぁっ!!」
渾身の力でもって、透明な檻を殴りつけた。
握り締めた拳がじんじんと痛む。けれど、そのくらいの代償は安いものだ。
「やった……!」
殴りつけた、瞬間。透明な檻は粉々に砕け散っていた。支えをなくし、外に溢れ出る砂の山。辺りに散らばる檻の欠片。
それらを越え、名前は改めて周囲を見回した。
「外に出たのはいいけど……」
ここは、いったいどこだろう?
そもそも目を覚ますまで名前は何をしていたのか。
頭に手をやり、記憶を辿る。
そうだ、朝歌への進軍も半分以上を過ぎ、隊列はメンチ城の目前まで至っていた。それは覚えてる。思い出せる。
問題は、そのあとだ。
農民に扮した妲己との遭遇。それから、彼女から放たれた強烈な衝撃波。そこまでは巻き戻せたが、その後がどうにも思い出せない。痛みに意識が飛んでしまったのだろう。
「……ということは、まさか」
名前は咄嗟に腰に下げた剣に手を添えた。慣れ親しんだ感触は確かにそこにある。武器は取り上げられていないようだが、記憶の断絶から考えるに、ここは敵地と見て間違いないだろう。でなければ、すぐに見知った顔に出くわすはずだ。第一そうでないなら時限式の檻に放り込まれるはずがない。
まず一番に思いついたのは人質という単語だった。敵を無傷で捕らえる。人質以外にそうする理由が思いつかない。それにしては監視の目がないのが気にかかるが。
ここまでの鮮やかな手際。名前の見たことのない仕掛け。恐らく敵は仙道ーーそれも、かなりのやり手だろう。周の仙道が一堂に会する中で人質をとったのだから。
こうなると、他の者の安否も気になる。名前が無事なのだから皆も平気だろうが……。
「そうだ!武王!!」
ここまで考え、名前はようやく思い出した。そうだ、あの場には武王もいた。周りにいたのが仙道か天然道士ばかりで武王がただの人であることをすっかり失念していた。
ーー武王が、危ない。
焦りが名前に生まれる。けれど安易に行動するわけにもいかない。何しろ名前にここの土地勘はないのだから。
名前は足を忍ばせ歩き始めた。
固い壁。湿気た空気。何より、この空間は細い道ばかりで構成されていた。迷宮ーーなのだろう、恐らくは。
名前にはこの場所がどれだけの広さを持っているのかすら想像もできなかった。何しろ壁は高く、道は曲がりくねり、先が見えないのだから。
「せめて、何か標さえあれば……」
ぼやきながら、名前は壁に印をつける。同じところをぐるぐる回っていたら始末におえない。そう思って刻み始めたが、一向に出口に辿り着く様子がなかった。
そんな名前の前に、影が落ちる。
「なんだ、人質のくせに砂時計を壊してきたのか。そのまま大人しくしていれば穏やかに死ねたものを」
それは男だった。人の形をした、男。けれどどこか違和感の残るその姿に、妖怪仙人なのだろうと察しがついた。
問題は、なんの妖怪か、だがーー
「おい、女、黙りか?」
「……貴様と話すことなどない」
どうだっていいか、と名前は剣を抜く。そう、男がなんであれ構わない。どのみち戦いは避けられないのだから。
「生意気な……!!」
激昂し、向かってくる男。振りかぶられた腕。その先に伸びる爪は大きく鋭利で、人の身体など容易く捌けるだろう。
だが名前は躊躇なく懐へ入り込んだ。振りかぶられたせいで隙のできた腹へと。
「ぐ……っ!」
名前は剣を突き立てた。
妖怪仙人は原形に戻る前に弱らせる必要がある。そう太公望から教えられたことが名前の中で生きていた。
だから名前は心臓を避け、けれど致命傷となる傷を与えた。
男は崩れ落ち、たちまちその仮初めの肉体を捨て去る。
そこにいたのは満身創痍の馬だった。これが先程の男の原形なのだ。その証拠に、馬は名前が男につけたのと同じ場所に傷を負っていた。
馬は哀れっぽく鳴いた。黒い瞳が懇願するように名前を見つめる。
けれど。
「ごめんなさい」
名前は一刀のもとに切り捨てた。
そして、すぐに距離をとり、それが封神されるのを見守った。これもまた太公望から教えられたことだ。妖怪仙人は最期に恐るべき執念を見せる、と。
だが馬は抵抗することなく、大人しく魂を飛ばした。
「……はぁ、」
しかし名前の顔は晴れない。
何しろなんの情報も得られないまま、またひとりになってしまったのだ。せめて妖怪仙人から何か聞き出せたらよかったのだが。
「……、」
それから、どれだけの時間が過ぎたろう。
その間名前が出くわしたのは妖怪仙人のみ。仲間の姿もなければ、敵の正体もわからない。おかげで精神的に疲弊してきた。
このまま二度と外に出られないのではないか。
嫌な想像に首を振った、その時。
「うわっ」
角を曲がったところで、名前は何かにぶつかった。何か、温かいものに。
「名前!?」
ーー懐かしい、声。
顔を上げた名前の前にあるのは、見知った青年の顔。驚きと安堵に揺れる瞳。名前の肩を掴む、大きな手。
「天化どの……?」
あんまりにも疲れていたから、名前はこれが夢のような気がした。疲弊した頭が見せる都合のいい幻。そう思ってしまうくらい、名前は追い込まれていたのだ。
けれど。
「よかった……!」
力強い腕に引き寄せられ、ようやくこれが現実なのだと知った。だって、胸が苦しいくらいに締め付けられている。彼の胸から伝わる心音は名前のそれと同じくらいに喧しいし、温もりは冷えた名前の身体を間違いなく温めた。
これが夢だとしたらあまりに明瞭すぎる。
だから、これは現実なのだ。
そう理解した瞬間、名前は応えていた。天化の背に手を回し、その肩に顔を埋めた。
「よかった、本当に。無事で、よかった……」
震える声が切ないほどいとおしい。
耳許で絞り出された囁きに、名前も答える。ありがとう、と。
「わたしを、見つけてくれて……」
「……あぁ、」
彼の腕の中は驚くほど心地がよかった。ずっとこうしていたいと思うほどに。
けれど、天化の後ろから咳払いが聞こえて、名前も天化も飛び退いた。
「さぁさぁそういうのは後にして先を進むぞ」
天化の後ろにいたのは太公望だった。名前はまったく気づかなかったが、彼はずっと天化と行動を共にしていた。
だから、つまりーー
「……は、恥ずかしい……」
太公望には何から何まで見られていた、ということになる。取り乱す名前も、天化にすがりつく名前も。何もかも、彼には見られていた。
羞恥に顔を覆う名前。だが、太公望の存在を忘れていたのは何も名前だけじゃない。
「す、師叔、さっきのは……」
「安心しろ天化。わしは何も見ておらん」
「……助かるさ」
名前と同じく、天化の頬も赤らんでいた。
それを横目に、「青春だのう」と太公望はのんびりと呟いた。
「まぁ良かったではないか、名前が見つかって」
「ん、あぁ、そうだな」
声を落とした太公望につられ、天化まで密やかな声で答えた。名前はといえばひとり羞恥に悶えているせいで二人の会話は耳に入っていない。
だから、か。
太公望は、にやりと笑った。
「わしも一安心だ。何しろおぬしときたらめちゃくちゃ取り乱しておったからのう」
「師叔!それは内緒っつったさ!!」
天化の叫びにようやく名前の意識も帰ってくる。
「どうかさないましたか?」おずおずと訊ねるが、天化が正解を教えてくれるはずもなく。
「なんでもないさ、な、師叔」
頼むから黙っていてくれ。
そんな無言の訴えを無視するほど太公望の意地は悪くない。
「おぉ、そうだ。大したことではないぞ」
相も変わらずにやにやと笑いながらーーではあるが、一応は天化の話に乗ってくれた。
ほっと胸を撫で下ろす天化とは対照的に、名前の周囲には疑問符が飛び交っていた。だがそれに答えをくれる者はこの場にはいなかった。