妹弟子、秘密を知る


 仙界大戦は終結した。
 けれど多くのものが失われた。崑崙十二仙ーー名前の師、玉鼎真人も。
 崑崙山も金鰲島も落ち、残された仙道はしばらくの間周の世話になることとなった。
 西岐城。この地を旅立ったのはそれほど前のことではないのに、なぜだかいやに懐かしく感じられた。
 これが大人になるということなのだろうか。過ぎ去った時。何も知らない子供だった時分。それは幸福な日々ではあったけれど、戻りたいかと問われれば間違いなく否と答えたろう。
 今も変わらず名前の胸は痛む。玉鼎真人。名前の師。名前の憧れ。名前の恩人。幼い時に崑崙へ移った名前からすれば、彼は父親代わりでもあった。父のように慕っていた。
 師であり、父であり、目標であり、ーー玉鼎真人は名前にとってあまりに大きすぎる存在だった。
 けれど悲しみに暮れているばかりではいられない。仙界大戦が終結したといっても人間界の戦いはまだこれからなのだから。
 だから、周の将軍にはしっかりしてもらわなければならないのだけれど。

「しっかりなさってください、……父上」

 名前の父。名前と真に血の繋がった男は、毎日酒に溺れていた。
 周の将軍、南宮括。彼はライバル視していた武成王が亡くなったことで張り合いを、ひいては生き甲斐を見失ったらしい。
 その悲しみや痛み、喪失感はわかる。わかるけれど、だからといって、将軍がこんな様子では兵の士気にも関わる。

「酒に逃げてもいいことなど何もありませんよ」

「いいだろう少しくらい……」

「少しという段階にはもうありません。ほら、早く立って。こうしている間にも体は鈍ってしまうでしょう。それでは困るのです」

 名前が急き立てると、なぜか南宮括の目に涙が浮かんだ。
 父の泣き顔。幼い頃に彼の元から去った名前には見覚えのない表情。記憶にある父の姿は名前よりずっと強く、大きくーー決して人前で涙を見せるような人ではなかったのに。

「ひとりにしてくれ……」

 男の声はひどく弱々しいものだった。

「南宮括くんの様子はどうだった?」

 西岐城の一室。楊ゼンに与えられた執務室で、名前は兄弟子に報告をした。

「変わりありません。相も変わらず酒に逃避しています」

「そうか……」

「ですがいずれは立ち直るものと思います。……今は、心が追いついていないだけでしょうから」

 身内の贔屓目かもしれない。けれど、南宮括が悲しみに囚われる男ではないと名前は思う。いつかは必ず立ち直れると、武成王の遺志を継ぐだろうと、そう思っている。
 だから楊ゼンが「僕もそう思うよ」と言ってくれて、名前はほっとした。殆ど繋がりがなかったとはいえ、父が父であることに変わりはない。尊敬する兄弟子に認められ、名前は胸を撫で下ろした。

「しかし楊ゼンさまこそ平気なのですか?あまり仕事を抱えすぎるのは……」

 名前は室内を見渡した。
 楊ゼンの部屋。そこは彼らしく整えられてはあったけれど、広い卓子の上にはいくつもの木簡や巻物が所狭しと並んでいる。
 楊ゼンは打ちひしがれる南宮括を気遣った、けれど。
 彼だって多くのものを失った。多くの、深い傷をその身に抱えているはずだ。
 だが彼がそれを見せることはなかった。ちらりとも覗かせず、日々仕事に追われていた。それは仙界大戦が始まる前と同じでーーだからこそ名前は彼のことが気にかかった。
 なのに、楊ゼンは笑う。事も無げに。いつも通りに。

「大丈夫だよ、これは僕の為すべきことだからね」

 そう、言って。
 殷への進軍に必要な書状や計画書を書き進めていく。
 無理をしている様子はない。しかし、それでも名前には彼が何かを抱えているだろうことは察しがついた。
 仙界大戦の最中。金鰲島に潜り込み、負傷した楊ゼン。救出された後の彼に、名前は会いに行こうとした。
 けれどそれは太公望に止められた。

『今の楊ゼンは自分の意思で動ける状態ではない。……あやつの抱えたものは、あやつ自身が話したいと思うまで打ち明けるわけにはいかぬ』

 わしが独断で決めていいことではない。太公望はそう言っていた。
 彼の言うことの殆どが名前にはわからなかった。楊ゼンの抱えたもの。それは名前には心当たりのないものだった。
 けれど太公望がそう言うからには何かあるのだろう。楊ゼンの抱えたものーーなにがしかの秘密が。
 それを太公望は知っている。その事実は名前の胸を痛めた。悔しいと思った。自分は楊ゼンに認められていないのだと。
 そう顔を歪めた名前に、太公望は溜め息を吐いた。

『……大切に思うからこそ、打ち明けられぬこともあるだろう』

 楊ゼンが自ら話すまで待っていろと太公望は言った。だから名前は大戦が終結した後も、それに触れることはしなかった。
 太公望の言うように待つつもりだった。いつまでも、途方もない時間の果てにだろうと。それが楊ゼンのためになるのならば、と。
 けれど。

「……何か、手伝えることはありませんか」

 何もできないということほど歯痒いものはない。
 名前は自分が頭の回る方ではないことくらい知っている。自分には筆よりも剣の方が合っているとわかっている。
 それでも、楊ゼンの役に立ちたかった。
 我が儘だということは承知している。人には向き不向きがある。だからこれは名前の我が儘だ。
 そう、おずおずと訊ねた名前を、楊ゼンは静かな目で見た。

「……じゃあ、少し付き合ってもらおうかな」

 穏やかな微笑。それはとても傷を負った者のそれではなかったけれど。
 だからこそ名前はその微笑みに胸が痛んだ。
 楊ゼンと共に哮天犬に乗り、西岐城の上空に出る。風は冷気を帯び、季節の移り変わりが感じられた。それほどまでに長い間戦いは続いているのだと。
 ぼんやりと西岐を見下ろしていた名前に、楊ゼンは密やかな声で切り出した。すまない、と。
 それは思いもよらぬものだった。
 名前は驚きに目を見張った。なぜ、と問うことすらできないほどに驚いていた。
 瞠目。その目から逃れることなく、楊ゼンはひたと見据える。

「師匠が亡くなったのは僕が弱かったせいだ。そのせいで君にまで苦しい思いをさせてしまった」

 だからごめん、と彼は頭を下げる。名前の兄弟子が。憧憬に焦がれた人が。名前なんかのために、頭を下げた。
 それを許せる名前ではない。

「やめてください、楊ゼンさま」

 驚きが過ぎ去った後。生まれたのは怒りに似た感情だった。
 それに明確な名はつけられない。怒りとか悲しみとか悔しさとか、そんなものがない交ぜになった感情だった。
 その激情に押され、名前は楊ゼンの頬を両手で持ち上げた。
 ほんの少しの距離。指一本分くらいしか今の二人に隙間はなかった。それほどの近距離で名前は楊ゼンを見つめた。力強い目で、彼に訴えた。

「わたしを侮らないでください。そんなことであなたに怒りを持つような者だなんて……可能性だけであっても思われたくありません」

「名前……、」

「師匠の選択は師匠だけのものです。師匠が勝手にあなたを助けたいと思った、それだけです。それだけ、だからこそ」

 誇らしいとーーそう、思った。
 玉鼎真人。情に厚く、心優しい人。彼の選択は間違ってなどいない。単身楊ゼンを救いに向かったことも、楊ゼンを救うために身を投げ出したことも。
 誰かのためではなく、自分がそうしたいと思ったから玉鼎真人は行動した。そのすべてを名前は誇らしく思う。師匠がそういう人であったから、名前も彼に憧れたのだから。

「このことは誰のせいでもありませんし、わたしはあなたが今ここにいることを喜ばしく思います。だから、この話はこれでお仕舞いです」

 そう言って、名前は固まっていた表情を崩した。
 「楊ゼンさまったらそんなことを気にしてたんですね」笑って、名前は彼から手を離そうとした。

「……待ってくれ」

 しかしその手を掴む者がいた。そしてそれは名前以外にひとりしかいない。
 楊ゼンは真剣な眼差しのまま、しかし先ほどとは異なりどこか頼りなげな瞳でーー名前を捕らえた。

「……話さなければならないことがあるんだ」

 揺れる瞳。震える唇。
 名前は自分を捕らえた手が縋るようであることに気づいた。気づいたから、彼に応えた。

「なんでしょう」

 静かに、穏やかに。
 痛いほどの不安を感じ取り、名前は微笑を浮かべた。少しでも彼を安心させたかった。
 それに、彼が何を言おうと名前には逃げるつもりがなかった。どんなことであれ、受け止めたかった。
 それは楊ゼンのためでも彼を思っていた師匠のためでもない。他でもない、自分のため。名前自身が知りたかったから、彼の役に立ちたかったから、ーー彼に、触れたかったから。
 だから名前は彼の手をほどき、逆に自分から重ねた。
 そうすると楊ゼンは息を呑んだ。息を呑み、目を閉じ、次に交わった視線は、眼差しは、もう揺らいではいなかった。

「僕は元々は崑崙の者じゃない。幼い時に金鰲から預けられたーー妖怪仙人なんだ」

 そう言った声も、もう。
 だから名前も静かに訊ねた。

「でもあちらに……金鰲の者たちの元に帰るわけではないのでしょう?」

「ああ。……僕は、崑崙の道士だからね」

「……ならば、わたしに聞くべきことはもうありません」

 名前は重ねた手を握り直した。
 妖怪仙人。とてもそうは思えぬ柔らかな肌。慣れ親しんだ温もり。そのすべてがたとえ偽りであっても。

「楊ゼンさまがわたしの兄弟子である。それに変わりがないのなら、わたしはそれで十分です」

 名前は笑って、楊ゼンを抱き締めた。
 こんなこと、今までだったら考えられなかった。彼は名前の目標で、憧れで、ずっと遠くの人であったから。
 でも今はそうしなくてはならないような気がした。それはなんの根拠もない、ただの直感なのだけれど、名前はそれに従った。

「楊ゼンさまが妖怪で、崑崙に預けられて、それでよかったとわたしは思ってしまいます」

「……なぜ?」

「だってそうでなかったら玉鼎真人の弟子になることもなく、わたしがあなたと出会うこともなかったかもしれないでしょう?」

 ひどく自分勝手な考えではある。自覚はしている。でも、楊ゼンが今の人生を歩んでくれたから、名前の今もここにある。
 だから、名前は言いたい。

「ありがとう、楊ゼンさま」

 名前は彼の肩に顔を埋めた。名前よりもずっと大きく、ずっと強い体。でも万能ではない。彼にだってできないことはあるし、彼にだって皆と同じ傷がある。
 それでも楊ゼンは名前の憧れで、彼を信じ続けることに変わりなどあるはずもなかった。

「名前……」

 ありがとう、と。
 囁きは驚くほどささやかで。風に紛れてしまいそうなほどで、幻聴ではないかというくらい弱々しいものであったけれど。
 名前の背に回った手は、その温かさは、確かに現実のものであった。