殷の公主、先を見据える
その日、ひとつの星が流れた。
瞬間、名前は太師がもうこの世にいないのだということを悟った。
涙は出なかった。たぶん、あの日に流し尽くしてしまったのだろう。
それに、最期に彼が会いに来てくれた。
それは名前の錯覚かもしれない。夢見がちな公主の幻想。名前の願望だったのかも。
それでもよかった。
『約束を違えてすまない』
そう、心苦しそうに吐露した彼に、公主として伝えたいことは伝えられたのだから。
『……あなたは殷の誇りです。昔も今も、変わらず』
救われていたと。太師がいたから殷も名前も今まで在れたのだと。
『ありがとう、心から感謝しております』
殷の公主として、彼を送ることができた。
微笑む名前に彼は何を思ったろう。ただ、消えゆく彼が最後にひどく穏やかな顔をしていたのだけはわかった。
ーーそれで、十分だ。
少しでも太師の救いになれたのなら。痛みを和らげることができたのなら。恩に、報いることができたなら。
ーー名前が伝えそびれた想いなど、どうということはない。
「……仙界大戦が終結しました」
名前が空に思いを馳せていると、申公豹が邸に帰ってきた。報せを携えて。
名前は振り返った。申公豹は相変わらず感情の読めぬ顔で立っていた。
名前は「そう」と静かに答えた。それは自身でも驚くほど落ち着いたものだった。
だから申公豹が首を傾げるのも無理はない。なにせ、名前はこの邸から出てはいないのだから。大戦の詳細など知るはずもないのだから。
「結果は聞かないんですか?」
「必要ないわ。知っているもの」
ゆるりと首を振る。長い髪が頬を打つ。なんだかそれが今はいやに鬱陶しく思えた。
「ねぇ、申公豹。わたし、髪を切りたいわ」
「それは私に切れと言っているのですか?」
「切りたいの?別にわたしはあなたでも構わないけれど」
名前は自分の体を見下ろした。
長い黒髪。足首まで覆う襦裙。広い邸。公主という立場。
重い、と思ったことはなかった。これまではそれが当たり前だった。妲己が現れる前もその後も。名前は自身が公主以外の何者でもないのだと理解していた。
けれど、今は。
「……次は人間界の番よね」
仙界大戦は終結した。殷の太師は封神された。残るのは妲己と紂王。もう、周の進軍を阻むものはない。
決着の時は近い。殷が倒れるか倒れないか。それだけの戦いが、もう間もなく始まるのだ。
そしてそれが、名前が公主としての務めを果たせる最後の機会でもある。
「怖いですか?」
「……怖いわ」
名前は正直に認めた。
しかし申公豹が嗤うことはなかった。「でしょうね」と頷いて名前の隣に座った。
そこからは庭院が見えた。そしてその先の朝歌の町並みも。名前がかつて暮らした後宮も。紂王の御座す城も。
そのすべてが直に露となる。殷という国も。紂王という天子も。ーー名前という公主も。
「わたしたちは断罪される。他でもない、わたしを公主たらしめていた者たちによって」
ーー殺されるのだ。
名前は目を閉じた。近い未来は瞼の裏で鮮明に描かれる。
それは避けようがない定め。殷の公主として生まれた名前の務めなのだ。今さらそれに抗うつもりはない。
けれど、やはり怖い。これまでの自分が否定されるのが、何より怖かった。
殷の公主であることだけが支えだった。それだけが名前を名前たらしめていた。それ以外の自分など考えたこともなかった。
もしかしたらただの公主であり降嫁した身の名前が命まで取られることはないのかもしれない。けれど、たとえそうなったとしても名前はもう公主ではいられない。公主の名前は死ぬ。どうあっても。
そうでなければならないと理解しているのに、膝が震える。手で抑えても止まらない。
名前は苦笑した。
「心配しないで、逃げたりなどしないから」
申公豹の邪魔はしない。暗に、そう告げる。
申公豹の目的は知らない。ただそれは教えたくないのではなく教えられないのだと以前彼は言っていた。
申公豹には目的がある。そのためには妲己を泳がせておく必要があるのだとも。
それは名前にとって歯痒いことだ。けれど堪えるしかない。妲己の目的。なぜ殷は滅びの道を歩まなければならないのかを知るためにも、名前は彼に着いていく必要があるのだから。堪えるしか、ないのだ。震えも、恐れも。
そう、名前は覚悟を決めているというのに。
「……逃げてもよいのですよ」
申公豹は甘言を弄する。
名前は申公豹を見た。何を考えているのかわからない黒い瞳を。
その目は底のない湖のようだった。深遠。そこに名前が辿り着くことはないと思っていたのに。なのに彼は手を差し出す。名前を遠くへ連れ出そうとする。あの日、降嫁を決めた時のように。それよりもずっと遠くへと。
「それはきっと楽しいことなのでしょうね」
でも。
「……それでもわたしは公主であることを望むわ」
兄弟が、太師が、そうであったように。名前も、最後まで務めを果たしたい。
申公豹は「そうですか」とあっさり受け入れた。たぶん彼には名前の答えがわかっていたのだ。
けれど、と彼は言う。
「私はそれでもよかったんですがね」
「え?」
名前が続きを目で促しても彼がそれ以上を話すことはなかった。ただ笑って、名前の問いからのらりくらりと逃れた。
「あなたが知る必要のない、つまらない話ですよ」
「だったら最初から口にしないでちょうだい」
言いかけた言葉ほど気になるものはない。いくらその言葉の殆どが戯れの道化であっても、気になるものは気になるのだ。
さらに失礼なことに、顔をしかめた名前を申公豹は笑った。「聞仲には見せられない顔ですね」と言って。
殴ってしまおうかしらと名前はつい拳を握り締めた。絶対に躱されるだろうけど。道士に敵うはずもないのだけれど。
気色ばむ名前をほったらかし、申公豹はふと纏う空気を変えた。
「それよりこれから先どうするか決めてあるのですか?」
出し抜けに彼は真面目な顔をする。いや、相変わらず道化な格好をしているせいでいまいちそんな感じがしないが、なんとなく語調が変わったのを名前は感じ取った。
だから名前もつられて居住まいを正した。
「いえ……。それに妲己も未だ帰ってきませんし」
「残念ながら妲己はじきに戻りますよ」
もしかしたら。妲己の目的は済んで、紂王の治世が続くかもしれない。今の正気に戻った紂王のままーー名前が幼い頃の賢明な王として。
そんな淡い期待を申公豹はすぐさま打ち砕いた。
「……そう」
期待はしていないーーつもりだった。
わかっていた。滅びは避けられない。これは必定。妲己が現れた時点で決められた運命なのだと。
なのに名前はまだ夢を見ていた。そんなところばかり太師に似てしまったらしい。
「わたしには待つより他に道はありません。武王を信じて、待つしか」
紂王を倒すのは武王でなければならない。そうでなければこれは革命とは呼べない。
だから名前は待つ。待ち続ける。武王が、周が、紂王まで辿り着くのを。
名前が手出しできるのはその後くらいしかない。
そう考えると公主という地位がどれほど飾りなのかと思い知らされる。位ばかり高いくせ、その実なんにもできやしない。ほとほと自分に嫌気が差す。
無力感から名前は溜め息を吐いた。「幸せが逃げますよ」と茶々を入れられるが、どうだっていい。
「ならば少し外に出てみませんか?」
しかしこの誘いには反応を示さざるを得なかった。
驚きに目を見張る名前に、申公豹は肩を竦めてみせた。
「少し野暮用がありましてね。ついでにあなたも世界を見ておくといい。これが最後かもしれないのだから」
「申公豹、あなた……」
名前は思わず手を伸ばしていた。伸ばして、さしてない距離を埋め、その頬に触れる。
そして、冷たい頬を思いきり引っ張った。
「……本物?」
しかし皮が剥がれるなんてことはない。なんらかの術が解ける様子も。
「つくづく失礼ですね、あなたという人は」
「だっておかしいわ。近頃のあなた、まるで血が通ってるみたい」
わざと名前を泣かせたり、必要もないのに己のことを語ったり。おまけに今度は名前に情けをかけようとした。以前の道化なら考えられないことだ。以前なら名前をからかうだけからかって、自分は決して手を出さない。それが道化の常だった。
なのに、近頃の申公豹は時々普通の人間のように振る舞う。普通の人間のように、名前を気遣う。捨て置かれた公主に手を差し伸べる人などいやしなかったのに。他でもない、道化が、申公豹が、一番気遣いなんてものから遠そうな人が、名前を個として扱おうとする。
どこかで入れ替わってるんじゃないかしら。そう訝しむ名前に、申公豹は頬をひきつらせた。「本当に失礼ですね」と文句は言うのに、彼が名前に手を上げることは一度だってなかった。
「ただの暇潰しですよ」
そう、彼は嘯いた。こんな時だけ道化らしく。彼の芯に触れるようなことには絶対に口をつぐんでしまう。
「……まぁ、いいわ」
名前は諦めて彼の手をとった。
彼が言うように暇潰しだろうと。もしくはなんらかの策に嵌まっているのだとしても。
「わたしもちょうど体を動かしたいと思っていたところなの。ついでに稽古でもつけてくださらない?」
「私手加減って苦手なんですよねぇ。消し炭になったらすみません」
「じゃああなたは聞太師以下ってことね、あの方は昔から王家の者を鍛えていらっしゃったもの」
「……仕方ないですね」
不承不承といった体で申公豹は名前の手を握り返した。
名前は口角を上げた。
こんな風に笑ったのはいつぶりだろうか。道化にも道化らしいところがあるらしい。思えば名前が泣けたのも笑えたのも申公豹のお陰だ。
借りは返したい。……けれど。
「なんですか、そんなにじろじろ見て。気味が悪いですね」
「あなたの方がよほど失礼じゃないの」
きっとそれは叶わない。
その前に名前は彼の手を離すことになる。そんな気がしてならなかった。