太公望×(姉属性+小悪魔)姫昌の娘


 回廊の隅、欄干に肘を乗せ、ぼうと空を見上げる背に、名前は声をかけた。
 名前に向けられる顔。太公望は、いつもの気の抜けたような笑みを浮かべ、手をあげる。

「おう、名前か。何かわしに用かのう」

「ん?用がなきゃ話しかけちゃダメだった?」

 名前は歩を進め、太公望の隣を陣取る。そうしてから彼と同じ体勢をとり、逆に訊ね返した。小首を傾げ、無邪気な笑みで。
 すると太公望はわかりやすく困惑した。

「いやそういうわけではないが……」

「ならいいじゃない」

 何事か言いたげな太公望。何を言いたいかーー名前には察しはついている。
 けれど名前は彼に問う暇を与えない。「いい天気ねぇ」そう言って、伸びをする。
 実際、天候には恵まれていた。風も雲もなく、凪いだ空。城内には静寂が広がり、名前の周りもまた、同じだった。いつもは口煩い者すら、皆一斉に黙りを決め込んでいる。
 そんな中、名前はいつも通りに振る舞っていた。そうしているのは名前とその弟の旦くらいなものだ。でも誰もそれについて触れてはこなかった。
 ただ目だけは黙らせようがない。彼らの目。悲しみと労りの目が、名前には煩く感じた。そうされるくらいならいっそ口を開いてくれた方がマシだとすら思った。
 だから、名前は逃げ出した。逃げ出し、太公望の隣へと避難した。
 そんな彼の頬は目でわかるほど腫れていた。片方だけ赤くなった頬。そこに手を這わせると、一瞬、震えが走る。微かに歪められた顔。痛みを堪える表情。

「ごめんなさい、痛かったわよね」

「いや、そうでもないぞ?」

「またまた、強がっちゃって」

 名前は笑って、それからすぐに表情を改めた。

「ありがと、太公望クンのお陰で発ちゃんも立ち直れたわ」

 太公望の頬に残る痛み。姫発に殴られた余韻。そこに触れたまま、名前は目を細めた。
 西伯侯姫昌。名前たちの父が亡くなったのは先刻のこと。
 姫昌は皆に見守られながら亡くなった。その顔はひどく穏やかで、満ち足りたものだった。
 だからか、名前の中に悲しみはない。ただ弟のことが心配だった。
 けれどそれは杞憂に終わった。軍師太公望のお陰で。
 なのに太公望は飄々とした態度を崩さない。

「なんのことやらさっぱりだのう」

 口笛を吹いて、わかりやすく誤魔化す。
 まったく、と名前は眉を下げた。人が礼を言っているのだから素直に受け取ってくれればいいのに。まぁ、太公望らしいといえばらしいが。

「太公望クンって結構めんどくさいところあるわよねぇ」

「突然の悪口にわしはびっくりしているぞ」

「悪口じゃないわよ」

 名前は欄干の上で組んだ腕に顔を乗せ、横目で太公望を見る。

「好きよ、そういうの」

 ふ、と沈黙が落ちる。
 空気が変わる。いや、名前が変えたのだ。艶めいたものへと。
 太公望は目を見開いた。一瞬、確かに。
 なのに、彼は笑い飛ばした。

「そうかそうか。まぁ、主人公はモテるものだからのう」

 ワハハと大口を開けて笑う太公望。完全に名前の言葉は冗談にされた。からかったのは名前の方なのに、仕掛けたのは名前の方なのに。

「やっぱり太公望クンは枯れてるのね……残念」

「そこは大人と言え」

「えー……、大人とはちょっと違うわよ。お姉さんからしたら太公望クンってかわいいし」

「お姉さんか……」

 文句ある?と言おうとした。名前は会話を続けようとした。
 でも、言葉は喉奥で溶けた。太公望の真剣な眼差しに。名前を真っ直ぐ射抜く目に。
 名前は、息を呑んだ。

「……なにも、こんな時にまで姉ぶらずともよいのだぞ」

「そんなこと、」

 ないわ、と否定した。否定した名前は、何故だか目を逸らしていた。無意識のうちに、太公望の言葉を肯定していた。
 そう、無意識だった。名前自身気づいていなかった。太公望が、太公望さえ、指摘しなければ。
 名前は、自分が寂しさを打ち消そうとしていたことに気づかず済んだのに。

「……酷いわ、太公望クンったら。お姉さんを苛めるなんて」

 頬を膨らます名前に、太公望は大人びた顔で目許を緩ます。

「苛めるでもなんでもいいから、」

 泣いてもいい、と太公望は言った。自分のせいにすればいい、と。名前の頭を撫でて、言う。

「……、」

 名前は、一度目線を落とした。
 けれどすぐに顔を上げ、微笑む。

「……止めておくわ」

 欄干から体を起こし、太公望から距離をとる。
 背中で腕を組み、身を屈めてーー太公望を覗き込んだ。

「そんなことしたら、本当に好きになっちゃうもの」

 紅をはいた唇で微笑み、花で飾られた髪を靡かせ。踊るように、歌うように、名前は言葉を紡いだ。
 太公望は「そうか」と頷き、それでもなお名前を気遣った。

「わしはいつでも歓迎だぞ」

 そう言い残し、彼は去っていった。
 回廊には名前がひとり残された。

「……冗談よ」

 その声を拾うものはいない。名前の頬を撫でるのはやけに冷たい風だけ。辺りは静かで、穏やかな日のはずなのに。

「どうしちゃったのかしら……」

 頬に手をやる。
 そこは腫れたわけでもないのに熱を持っていた。城内は沈黙を守っているはずなのに、どくどくと煩かった。日差しは柔らかなはずなのに、夏の盛りのように暑く感じられた。
 その答えを、名前は知っている。知っている、けれど。

「嘘でしょう……」

 頬を赤らめたまま、名前は呆然と呟いた。