武官、胸騒ぎを覚える
その直後、迷い込んだ天祥と合流した名前は、そこでようやく現在地を知った。
メンチ城の前を流れる渭水。その河の上に浮かぶ客船、クイーンジョーカー号。その4階に名前は囚われていた。金鰲島の仙人、趙公明の策略によって。
そして同じ階層に囚われていた黄飛虎によって、4階の主の余化は倒された。
だが黄飛虎は満身創痍。彼を庇い、余化に止めを刺した天化も怪我を負ってしまった。
そこで太公望は名前たちに船から出ることを勧めた。
「おぬしらはここまでよくやってくれた。あとはわしに任せよ」
天化は最後まで納得がいかないといった顔をしていた。けれどここに負傷した父を置いていくわけにもいかない。
「大丈夫ですよ、きっと」
太公望の消えた天井を見上げ、名前は天化の肩を叩いた。
確かに今の太公望は宝貝が使えない。片手は義手になったそうだし、とても満足に戦えるとは思えなかった。ーー普通なら。
けれど名前は大丈夫だと思った。明確な理由、根拠は何もない。ただ、太公望がそう言うのなら……と思った。
太公望は策もなしに無鉄砲に突っ込む男ではない。そんな彼が「任せろ」と言うのだ。信じられる、と名前は直感した。
「……そうだな」
名前に促され、天化もようやく決心がついた。「親父の怪我も気になるし」実際それも大きな理由であった。
黄飛虎は名前が背負っていくことにした。体の小さな天祥や腹に傷のある天化よりも適任だったからだ。何より、そうでもしなければ名前の気が済まなかった。
「別に気にすることないさ。名前だって妖怪仙人たちを封神してくれたんだろ?」
「でもあの程度では露払いにもなりませんでした」
役に立ちたかった。少しでも、何かをしなければ収まりがつかなかった。
天化は困ったように眉を下げたが、結局は名前を止めることはなかった。名前の気持ちを汲んでくれた。
そうして帰還した先で、楊ゼンや蝉玉らと再会した。名前が案じていた武王は1階で楊ゼンに助けられたらしく、逆に名前の方が彼に心配されていたらしい。
「まぁお前があんなとこで死ぬタマじゃねぇってことくらいわかってたけどな」
そう言いながら、姫発は名前の頭を撫でた。砂を浴び、迷宮をさ迷った後の名前の髪は酷い有り様だろうに。一切気にすることなく、彼は名前に触れた。とても、優しい手つきで。
「……無事でよかった」
武王が名前の失態を責めることはなかった。彼の性格からしてそうなるとは名前も最初から思ってはいない。
けれどまさか天化と同じようにーー心底安堵したという顔で肩を抱かれるとは想像もしていなかった。
「お前のことだから気にすんなって言っても気にするんだろうけどよ。……お前がヤバい連中に捕まっても無事だった、それだけで俺は誇らしく思う」
ーー大切に、されているのだ。
名前が最も気にしていたこと。自分がいながら武王を危険に晒した。あまつさえ、己の身一つすら守れず、人質の地位に甘んじた。それが、名前の中でしこりとなって残っていた。
それすら、姫発は看破した。その上で、名前が一番喜ぶ言葉をくれる。
「……そのお言葉だけで、わたしは十分です」
救われた、と。思ってしまった。
同時に、この人以外に考えられないとも思った。姫発以外、武王以外に、新しい国を統べる者はいない。この人のためならばどんな苦難も辛苦も厭わしくない、そう思わせるこの人は。
ーーやはり、王の器なのだ。
「お前もありがとな」
離れたところに立っていた天化にも姫発は声をかけた。
天化は驚いたように目を見張った。が、すぐに「礼を言われるようなことじゃない」と首を振る。
「それに今回の狙いは完全に俺っちたちだったかんね」
「いや……」
それでもありがとうと姫発は言った。つい先日まで天化に対して思うところがあるような様子であったにも関わらず。
そのすべてを切り離して、姫発は真っ直ぐ天化を見た。
「お前、怪我してんだろ。早く手当てしてこいよ。ほら、名前も」
「ええ、ですが……」
「俺はなんともねーよ、大丈夫だ」
まだ趙公明は倒されていない。まだ敵の仙人がどこかに潜んでいるかもしれない。
だから武王から離れてもいいのだろうか。そう迷う名前を、他でもない姫発自身が手で追い払う仕草をした。
「……気にしてんだろ、あいつの傷。さっさと手当てしてその不細工な顔も直してこい」
天化に聞こえぬよう。姫発は名前の耳許でだけそう囁いた。ーーなんだか、彼には何もかも見透かされてしまっている気がする。
名前は「わかりました」と笑いながら頷いた。
「でも姫発さまは一言余計です。不細工なんて……次はありませんからね」
「なんだよ、可愛いって言われたかったか?」
「まさか。それを言うのは父上だけで十分です」
違いない、と姫発も笑った。
なぜだか名前にはその笑顔がひどく大人びたものに見えた。けれどもしかすると名前のそれも姫発と同じようなものだったのかもしれない。
たぶん、二人とも大人になったのだ。それはいつかと同じようにほんの少しの寂しさを名前にもたらした。でもいつかほど胸は痛まなかった。
「では、また後ほど」
「あぁ」
名前と天化は姫発の天幕から出た。
戦いはまだ終わってはいない。いまだ太公望は船の中で戦っている。
彼は一人で十分だと言ったけれど、しかしこちらも体勢を整えておく必要がある。
とはいっても名前は掠り傷くらいしか負っていないし、天化だって大した怪我じゃないと当の本人が言っていた。
なのに。
「おかしいですね……」
武王の天幕から程近い名前のそれ。治療道具も一通り揃っているからと、名前は天化を招き入れた。
そうして天化の腹の傷を診ていたのだが。
「傷は浅いはずなのに……」
どれだけ止血しても完全に血が止まることはなかった。
固まることなくじわじわと滲み続ける血。水で洗い流しても患部を圧迫し続けてもそれは変わらなかった。
毒でも塗ってあったのかしら、と名前の中に焦りが生じる。たとえばそう、蛇の持つ容血毒のような。
「やはり楊ゼンどのに診てもらいましょう」
名前は唇を噛んだ。
こうしている間にも天化の血は流れ続ける。名前が押さえつけていても。
天化の傷は妖怪仙人によるものだ。だから血が止まらないのも人間界のそれとは理由が異なるのかもしれない。そうなると最早名前の手には負えない。博識な楊ゼンに診てもらうのが一番だろう。
なのに天化は問題ないと笑い飛ばす。
「この戦いも大詰めさ、こんな時に楊ゼンさんの手を煩わせるわけにはいかねぇ」
「ですが!」
「大丈夫、思ったより深く切っちまっただけさ」
天化は名前の手をそっと剥がした。そうして器用にも自分で包帯を巻き、傷を覆い隠してしまう。なかったことに、してしまう。
名前はそれを止めることができない。
だって、天化の意思は固い。それは彼が浮かべる笑みから伝わった。名前が何を言っても、どうしても、彼は自分の決めたことを翻しはしない。
「……無理は、なさらないでくださいね」
「わかってるさ」
「落ち着いたら絶対楊ゼンどのに診てもらうのですよ」
「それまで治んなかったらな」
名前が心配しすぎているのだろうか。天化は本当に痛みなど感じさせない、怪我など負っていないかのように振る舞った。笑って、名前の乱れた髪を整えた。
けれど名前の胸中は晴れなかった。いつだって彼の笑顔を見れば安心することができたのに、今は胸騒ぎがして落ち着かない。
嫌な、予感がする。
でも言えない。言ってしまったら、それが真実になってしまいそうだった。名前は恐れた。言葉にすることを。
「ん?どうした?」
「……いいえ、なんでも」
名前は静かに頭を振った。でも天化の指先から手を離すことができなかった。
そうしてしまったら彼がどこかに消えてしまいそうで、怖かった。