ナタク×(世話焼き+母性的)仙人


 空から少年が降ってきた。
 こう表現するとファンタジーやメルヘンな感じがするが、現実はそんな可愛らしいものではない。
 実際には少年は落ちてきたのだ。文字通り、上空から。名前の住み処である洞府へと。
 最初は落石でも起きたのかと思った。それほどの強い衝撃。慌てて邸を飛び出した名前が見たのはしかし、地面に倒れ伏す少年の姿だった。
 彼が上から降ってきたのだと知ったのはその直後。太乙真人から貰い受けた通信機に連絡が入ったからである。そして発信者もまた彼であった。
 名前の洞府よりも上、乾元山金光洞に住まう男は機械越しでもわかるほどに焦った様子だった。

「あぁよかった、キミは無事なんだね!?」

 彼が初めに気にかけたのは名前の安否。それから彼は、

「そっちにナタク……ええっと、男の子が来てない?」

 と訊ねてきた。
 ナタク。その名に心当たりはない。だが男の子なら知っている。だって、

「今目の前で倒れてるけど……」

 ーーこの子の名前はナタクというのね。
 太乙の焦りとは反対に、名前はのんびりとそんなことを考えていた。
 気絶したままの少年。その閉ざされた瞳だけは見ることが叶わなかったが、それ以外のこと、幼い体躯だとか燃えるような髪だとか、そうしたものをじっくり観察することができた。
 ーーこの子はどんな声をしているのかしら。
 少年への興味は太乙の話を聞くほどに高まった。
 宝貝人間。その話は以前にも耳にしていたが、実際に本物を見るのは初めてだった。
 どうやらこのナタクという少年、太乙や兄弟との修行中にダメージを負い、ここまで落ちてきたらしい。

「まぁ、それじゃあ手当てしてあげなくちゃ」

 名前が少年の体を担ぎ上げている間も太乙は話し続ける。

「いやホントにナタクは大変な子だからね、」

 ヘタに手を出さない方がいい、と彼は言う。

「目覚めたらいきなりキミに襲いかかるかもしれないし……」

「あら、でもナタクくんが狙うのは強い人なのでしょう?」

 なら私は範囲外だ、と名前は笑った。
 名前も一応は仙人の端くれ。とはいえその宝貝は後方支援に特化している。戦いへ応用することもできなくはないが、名前の性格もあってそれはないも同然であった。
 そのことは無論太乙も知っている。しかし絶対はないだろう、と彼は諭す。

「現にほら、僕も狙われているわけだし……」

「それは反抗期なのよ、きっと」

「その反抗期にも終わりが来ればいいんだけどねぇ」

 片手で通信機を操り、もう片方の手で名前はナタクを寝台へと移した。
 白い夜具に身を沈める少年。そうしている姿は普通の子供と変わりない。その体に霊珠を埋め込まれているとは、とても。
 けれど太乙の話が本当のことなのだとも理解している。その証拠に彼の体には傷がない。墜落したばかりの時には負っていたはずの、怪我が。
 名前は少年の額に張りついた髪を払う。その感触も、肌に宿る温もりも、名前の心を温かくさせた。
 何しろ仙人界は変化に乏しい。新入りーーそれも子供とくれば、なおさら。

「ここに落ちたのも何かの縁。目覚めるまでナタクくんの世話を任せてくれないかしら」

「うーん……」

 太乙は最後まで渋っていた。
 けれど結局は名前の熱意に押されてナタクの滞在を許してくれた。

「これもナタクの情操教育になるかもしれないし……」

 などとぶつぶつ呟きながら。
 それが一週間ほど前のこと。
 いくら仙人の時間感覚が狂っているとはいえ、ここまでナタクが戻らないのはおかしい。何かあったのでは、と太乙は恐る恐る名前の洞府を訪った。
 そこで彼は驚きに腰を抜かすことになる。

「な、なな」

 なぜ。なんで。ナタクが。
 俄には信じがたかった。目の前の光景が。白昼夢でも見ているのかと太乙は目を擦った。
 しかしそうしても世界に揺らぎはない。つまり、これは現実なのだ。
 あのナタクが。戦うこと以外頭にないんじゃないかってくらいの彼が。

「おとなしく席に着いている、だと……?」

 それだけじゃない。
 ナタクは名前と同じ卓子を囲み、並べられた料理を静かに食していた。あのナタクが、である。太乙のことは都合のいい便利屋のように扱う癖、名前の前では借りてきた猫のようだった。
 しかしそれらは名前の預かり知らぬところで起きた話。だから名前からすれば太乙の驚きは大仰すぎて、「何を言っているの」と笑われてしまう。それが太乙には納得がいかない。

「あなたったら大袈裟ね、ナタクくんとってもいい子じゃない。物静かだし礼儀正しいし……」

「えぇ……」

 物静かで礼儀正しい。
 そのどちらも太乙は知らない。ナタクという同名の別人の話をしているんじゃないか。そう錯覚するほどに二人のナタクへの印象は異なっていた。
 張本人のナタクは自身が話題の主となっているにも関わらず、我関せずといった様子で餅餤を口に運ぶ。

「ナタクくんどうかしら?おいしい?」

「うまい」

 直截簡明。ナタクの感想はそれだけだった。
 けれどなぜだか名前の頬は緩みっぱなしである。太乙にはその背景に花が咲いているのさえ見えるほどに。

「そう言ってくれると作りがいがあるわ」

「いやそれにしたって作りすぎだろう……」

 デレデレの名前。その思考も行動もすっかり箍が外れていた。
 太乙は卓子の上に広がる数々の料理に目を遠くさせた。餅餤に唐菓物、しとぎに花橘子、覆盆子まで。多種多様のものがナタクの前に置かれていた。
 彼はそれらを黙々と嚥下していく。表情に変化がないので何を考えているのかイマイチわからない。が、嫌だと言わないということは、ナタクは現状に不満がないということだ。
 たった一週間。それだけでナタクを手懐けた名前。いったいどんな手を使ったのか……。
 太乙が考えていることなどいざ知らず、名前は「そうねぇ……」と頬に手を当てた。

「あ、あなたも食べていく?ナタクくんのお墨付きよ」

「いやまぁキミの料理の腕は知ってるからそのへんの心配はしてないよ」

 そう言われるとなんだか自分も腹が減ったような気がしてくる。
 「じゃあいただこうかな」太乙がそう言ってナタクの前の皿に手を伸ばした時、

「ダメだ」

 それまで太乙に興味を示さなかったナタクが初めて、彼を見た。
 いや、見るなんて生易しいものじゃない。もっとおどろおどろしいーー殺気。一気に室内の温度が下がった。

「な、ナタク?」

 背中を流れる冷や汗。伸ばしかけた手はもう引っ込められているにも関わらず、ナタクの目は鋭いまま。
 太乙は思った。今日が僕の命日かもしれない、と。
 しかし名前は太乙の危機に気づかない。あらあらと嬉しそうに笑って、ナタクの頬を拭った。

「そうよね、食べ盛りだものね。いっぱい食べて大きくならなくちゃ」

「……あぁ、」

 ナタクは二重人格かなんかか?
 太乙が荒唐無稽なことを一瞬でも考えてしまうほど、事態は異常を極めていた。
 名前に甲斐甲斐しく世話され、それを鬱陶しがることもなく、むしろ受け入れている。あのナタクが。あのナタクが、である。

「どうしちゃったんだいナタク、キミがこうまで大人しいのは母親に対してくらいじゃ」

 狼狽えていた太乙は、自分の言葉にハッとした。
 もしや、ナタクは、

「まさかキミ、名前から母性を感じたのかい?いやいや確かに名前は歳上だけど……お母さんというよりお婆ちゃ、」

「太乙さん?」

 ナタクの次に温度を下げたのは名前だった。
 底冷えする声で彼女は太乙を呼ぶ。笑顔。唇は笑みを形作っているが、目は一切笑っていない。
 ヒッと息を呑む太乙に、名前は噴き出した。なんて顔してるの。そう、今度こそ本当に笑って。

「酷いわ、大体私がお婆ちゃんならあなただってお爺ちゃんよ」

「え、それは嫌だよ」

「でしょう?」

 我が意を得たりと笑む名前に、太乙は降参の意を示した。

「よしわかった。僕が父親で名前が母親、それでいいね?」

 名前が反対するはずがない。だからこの一件はこれで決着がつく。ーーはず、だった。

「……こいつは母親じゃない」

 意外なことに否定したのはナタクだった。
 彼らしく淡々とした物言い。けれどそこには少しの迷いが見え隠れしていた。
 だがそれがわかったからといって、太乙にそれ以上の推測は立てられない。それは名前も同じで、ハラハラとした顔でナタクと太乙を交互に見やった。

「あの、ごめんなさいね、ナタクくんのお母様はたった一人なのに……」

「そうそう、冗談だってば。怒るなよナタク……」

 取りなすように太乙は殊更明るく振る舞った。何しろナタクの反応次第では名前が傷つく羽目になる。それだけは避けたかった。
 ーー頼むから余計なことは言わないでくれよ。
 太乙の祈りが通じたのか……。いや、ナタクのことだから気づきもしないだろうし、知っていたとしても太乙の言うことなど聞かなかったろう。

「名前は名前だ」

 だから、これは彼自身の言葉。ナタクの本心。心からの言葉だ。
 しかしあまりに言葉少なすぎて心情を測りかねる。名前は母親ではない。そして名前は名前だ。つまるところナタクが言いたいのは、名前でしかない彼女を受け入れているということ……なのだろうか。
 考え込む太乙と同じく首を捻る名前。
 そんな二人をほったらかして、ナタクは自分の言いたいことだけを口にする。

「だからお前も父親じゃない」

 つまりは、そう。こんな具合に。

「……それが言いたかっただけだろう」

 太乙は脱力した。
 ホッとした。けれど、ナタクの言葉は生みの親としては悲しい。もっと敬って然るべきなのでは?そう思うのは当然である。

「やっぱり反抗期なのねぇ」

 肩を落とす太乙を名前はそう言って慰めた。けれどやはり太乙にはこの反抗期が終わる未来がまったくといっていいほど見えなかった。