武官、憂える
天にあるといわれる仙人界。崑崙山と金鰲島。そのどちらもが空に浮かんでいると幼い頃から寝しなに聞かされてきた。だからそれは当たり前のことで、童子だって知っている常識で。
「これが金鰲島……」
けれど実際に目にするのとではまた違っていた。
雲の中を分けいって動く島。それは名前が呆気にとられている間も絶えず移動を続けていた。
金鰲島の仙人、趙公明。彼と彼の弟子たちとの死闘はまだ記憶に新しい。にもかかわらず変化は常にやってくる。どうも金鰲島側はこちらに休む間を与えてくれないらしい。
「どうやら聞仲は崑崙山ごとを攻撃するつもりでおるようです!!」
元始天尊にそう言ったのは、金鰲島に和睦を申し出に向かったはずの太公望であった。
聞仲。久しく聞いていなかったその名に、仙道たちの顔が強ばる。あの楊ゼンすらも冷や汗を流す強者。その様子に、聞仲とは直接会ったことのない名前にも緊張が伝播した。
人間界にいる道士も崑崙山に戻り、迎撃すべきと訴える太公望。それに元始天尊は是と答え、「こたびの戦い、おぬしに任す」と告げた。
「いや!おぬしでなくば勝利はあるまい!!」
それは太公望の軍師としての才を認めてのことか。しかし名前には元始天尊の言葉が引っ掛かった。
確かに太公望は優れた軍師だ。彼なくして周はなかったろう。けれど、それは人間界の話だ。
仙人界の戦い。仙人と仙人によるもの。その指揮をなぜ道士である太公望に一任するのか。なぜ太公望でなくてはならないのか。
名前には、元始天尊の言葉に何やら含みがあるように感じられた。それは根拠のない直感のようなもので、だから疑念はあろうとも名前は胸に仕舞うことにした。元始天尊、彼になんらかの企みがあったとして、やはり名前も太公望なくして勝利はないと思ったからだ。
とはいえ、本来戦いによる犠牲を忌避する彼にはなかなかに重い期待であろう。
名前はそう案じたのだけれど、「……はい!」と答える太公望の顔から読み取れるものは少なかった。
太公望は集まった道士たちに崑崙に戻る旨を伝える。そして武吉と名前を見、「おぬしらはどうする?」と問うた。それは太公望なりの優しさであったのだろう。
けれど武吉も名前も答えは決まっていた。天然道士である二人。仙道ほどこの戦いの役に立てるとは思えない。けれど、それでも彼らにーー太公望に着いていきたい。
名前は武吉と目を合わせた。それだけで彼もまた名前と同じ気持ちなのだとわかった。太公望に惹かれている。彼と共に戦いたい。そう、頷き合い、二人揃って返事をした。自分たちも着いていく、と。
「……そうか」
太公望は静かに受け入れた。
その瞳が一瞬翳ったのは、やはり彼の優しさ故であろう。わかっていて、けれど名前はそこに触れることはしなかった。何も気づかなかった。何もーー先行きに不安など持っていない、そんな風に笑った。
問題はその後。太公望が武成王一族"全員"に人間界に留まるよう言ったことで起こった。
一番に不満を露にしたのは武成王の末の息子、天祥である。趙公明戦においてもひとりで船に乗り込むほどの少年だ。抗議の声が上がるのも当然だろう。
しかし最も納得がいっていなかったのは崑崙の道士である天化だった。
「スース!!こんな時に俺っちだけ……」
自分以外の道士がすべて崑崙に戻るというのに。
そう食い下がる彼に、太公望は「言うな天化!!」と一喝した。
「おぬしを外した理由はおぬしが一番よく知っておるはずだ!!」
太公望の真っ直ぐな眼差し。鋭い語気。そこからは彼の揺るがぬ決意が見てとれた。
常にはないほどの真剣さに天化も二の句が継げない。「くっ…」と呻きつつも、反論することはなかった。
事情を知らぬ武吉はいったいどうしたのかと二人を交互に見やった。
「天化さんどうかしたんですか?」
「何でもねぇさ!!」
けれどその疑問に答えはなく。
天化は皆に背を向け立ち去ってしまう。
焦りが感じ取れる様相に、名前は目を伏せた。
「やはり天化どのの傷はまだ……」
「ええ、治ってはいないようです」
懸念を肯定したのは楊ゼンである。
趙公明との戦いが終わり、落ち着いた後にも天化が楊ゼンに怪我の具合を見せることはなかった。
彼は名前に大丈夫だと笑った。いつまでたっても取れない包帯に名前が顔を曇らせるたびに。彼は笑って、名前の懸念を消そうとした。
それはきっと彼が優しいからだ。優しくて強い、そんな彼だからこそ、皆に心配をかけまいと怪我の存在を隠し続けた。
それを裏切る行為だ。わかっていて、それでも名前は楊ゼンに相談した。天化本人には黙って。無断で、彼の怪我の治りが悪いことを話した。
天化の様子がおかしいことに楊ゼンも、そして太公望も気づいていた。
治療には時間がかかるだろう。そう太公望は言った。恐らくは妖怪仙人の最期の抵抗、故に治すには治療法を見つけることから始めなければならない。そんなことをーー戦争の最中に長期間離脱するなどということを、武人である天化が許すはずもなかった。
だから太公望はああ言うしかなかった。楊ゼンも名前も、それ以上のことを言えなかった。
太公望の決断も天化の焦燥も理解している。名前だってひとりの武官だ。だからこそつらかった。怪我を隠すための明るさも、焦燥感と苦渋の滲む背を見送るのも。見ていられなかった。
顔を歪める名前に、楊ゼンは「大丈夫」と肩を叩いた。
「崑崙には優れた科学者がいる。妖怪仙人の呪いだって解いてくれるさ」
「そう、ですよね……」
「……ですから、今は行っておやりなさい。きっと彼にはあなたが必要でしょうから」
柔らかな声音に、ハッと顔を上げる。
楊ゼンの容貌は青年のそれである。けれどその深い瞳は長い時を生きた者特有のものであった。慈しみのような、そんな温かな目で、楊ゼンは名前を照らした。
「わたしに何かできるとは思えませんが……」
ーーですが、行って参ります。
名前は自身に力がないことくらい自覚していた。天化の怪我を治すことも、彼を励ますことも名前にはできない。
それでも名前は武人だ。天化と同じ、戦うことを、強さを求めている。その気持ちだけは名前にもわかる。だから楊ゼンもそう言ったのだろう。
名前は納得し、他でもない楊ゼンの言葉だからこそそれに従うことにした。いや、楊ゼンに背中を押してもらったというべきか。
本当はすぐさま駆けていきたかった。彼を、天化をひとりにしたくはなかった。しかし名前には自信がなかった。そうすることで彼をさらに傷つけるんじゃないか。そう、尻込みしていた。
「ありがとうございます、楊ゼンどの」
頭を下げ、名前は駆ける。思うがまま、一番に考えた通りに。
天化の元へと、駆けていった。