殷の公主、世界を知る


 申公豹はいつものように黒点虎に跨がると、いつもとは違い自分の前に名前を座らせた。曰く、後ろに乗せたら名前が落ちても気づかないから、と。
 侮られてる。そう、名前は唇を歪めたのだが、実際名前に空を飛んだ経験はない。癪だが申公豹に従うのが賢明だろう。

「……わかりました」

 不承不承、名前は頷いた。
 しかし実際に飛んでみて、申公豹の言う通りにしてよかったと痛感した。
 黒点虎の上、名前からは世界のあらゆるものが見えた。何に遮られることもなく、世界を見ることができた。
 それは名前の知らない世界だった。
 これまでの名前の世界は後宮の小さな空だけだった。殷の公主だというのに、殷のことなどまったく知らなかった。
 切り立った崖も、乱立する緑も。赤茶けた砂漠も、清らかな河も。名前は知らなかった。存在すら、考えることがなかった。

「道化なのはわたしの方ね」

 名前はひとりごちた。返事は求めていなかった。それをわかっているから、申公豹も何も言わなかった。
 名前は殷の公主だ。それ以外の何者でもない。何者にもなれない。そのくせ、自分を公主たらしめている国のことなどまったくといっていいほど知らなかった。
 滑稽だ、と名前は思った。知らないことすら気づかず、安穏と過ごしてきた日々。やっと気づけたと思ったら、もう殷に先はないなんて、と。

「……でも、知らないまま死ぬよりはマシなのかしら」

 最後の最後に知ることができた。
 それが、唯一の救いだ。

「ありがとう、申公豹」

 名前は自然と笑うことができた。笑って、申公豹を見ることができた。
 申公豹はひょいと肩を竦めた。「ただの気紛れですよ」と言って、悪戯っぽく目を輝かせた。

「あなたに礼を言われるなんて。明日にでも世界が滅びそうですね」

「それ冗談にならないわ。世界はわからないけど、殷はいつなくなったっておかしくないんだから」

「そうでしたね、失礼」

「全然悪いと思っていないでしょう」

 そう言葉を交わしながら、名前は自身の心がひどく穏やかなことに気づいた。それがあまりに不思議で、あまりにおかしくて。
 申公豹に身を委ねながら、目を細めた。


 申公豹の野暮用。それを聞いた時、名前はどうせろくでもないことなのだろうと思っていた。
 けれどその認識はどうやら改めなければならないらしい。

「意外。あなたが周の軍師の手助けをするなんて」

 申公豹の腕の中。彼のマントから顔を出し、名前は口を開いた。
 周の軍師、太公望。申公豹と同じく道士である彼は、太上老君という仙人を探しているらしい。近く周と殷の戦が始まるというのにも関わらず。
 そして申公豹はその探し人の居所を知っているのだという。それを太公望に教えることこそが申公豹の野暮用なのだと。

「その方が面白そうというだけですよ」

 黒点虎の問いに対するのと同じ答えを申公豹は返した。
 けれど、と名前は思う。申公豹がわざわざここまで出向いたということは、他にも理由があるのではないか、と。

「まぁなんでもいいのですけど」

 名前は仙道ではない。だからそちらで何が起ころうと関知する必要はない。
 ーーないの、だけれど。

「どうかしましたか?」

「……なんでもありません」

 仙界大戦は終わった。崑崙山も金鰲島も落ちた今、仙道に大きな戦を起こす余力はないはずだ。
 残すは人間界。仙道の目的が妲己である以上、太上老君とやらを引っ張り出すのもまた妲己のためであろう。
 それなら傍観者を決め込む申公豹が戦いに関与することはない。
 引っ掛かったのはそこだ。
 相手が妲己だけであるなら。殷と周の戦いだけであるなら。ーー申公豹の出る幕はない。
 なのに太公望に手を貸した。面白そうだからと嘯いて。

「……まだ、戦いは続くのですね」

 それこそが申公豹の目的なのだろう。そしてきっと、今度こそ彼は本当に戦に加わるのだ。傍観者ではなく、一人の道士として。
 それが妙に名前の心をざわつかせた。

「人の世はいつだって戦ばかりですよ」

 なのに申公豹は名前の心情など推し量りもせず。いつものように問いをはぐらかした。
 心配、しているというのに。

「……え?」

「まだ何か?」

「い、いえ……そうでは、なく」

 名前は自分の頭が混乱しているのを自覚した。混乱。そうだ。今、自分は何を考えた?何を、思った?
 ーー申公豹を心配している、ですって?
 嘘でしょう、と名前は自身を問い詰めた。けれど心は変わらない。申公豹も帰らないのではないか、と。
 思って、しまったのだ。

「ちょっと、痛いですよ」

 申公豹の声に、ハッと我に返る。知らず知らずのうち、彼の腕を掴んでしまっていたらしい。

「ご、ごめんなさい」

 そんなつもりは一切なかった。なかったから、名前は慌てて手を離そうとした。離そうとした、けれど。

「…………、」

「名前?」

 名前を呼ばれても、名前は顔を上げることができない。
 驚きに体は凍り、心臓はいたく脈打つ。喉は震え、手は言うことを聞かない。
 お陰で名前は自分の心と向き合わざるを得なかった。
 心に嘘はつけない。名前は申公豹の身を案じている。そうだ、その通りだ。
 だって、今の名前には彼しかいない。彼だけが名前を連れ出してくれた。彼だけが、こうして今も傍にいる。
 それは太師が封神されたからなのか。その穴を申公豹で埋めようとしているのか。ただの依存心なのか。そのいずれも名前は否定することができない。
 でも一番は情が湧いたからだ。
 それは恋ではなく、愛でもなく。家族でも友でもない、名状しがたい繋がりではあったけれど。

「わたし、あなたにまで死なれては困るわ」

 喪いがたいとは、思う。
 見上げた先、申公豹の真っ暗な瞳と視線が交わる。そうしていても胸が高鳴ることはないし、距離を縮めたいと願うこともない。
 ただいつの間にかこの関係に安らぎを見出だしていた。居心地がいいと思う。彼といることは。

「あなたがわたしを連れ出したのよ、あなたがいなければわたしはこんな広い世界を見ることだってなかったのに」

 今度は、自分の意思で彼の腕を掴む。いつかのように挑むように彼を見て。いつかとは違い、明確な自己を持って。

「責任、とってくれなきゃ許さないわ」

 近い将来名前という公主が死ぬ定めだとしても。
 それより先に申公豹が逝くことは認められない。
 それはひどく自分勝手な願望で、彼への気遣いなんてものはどこにもなくて。殷の公主としてではない、ただの名前として、我が儘な小娘として、申公豹に告げた。

「…………、」

 彼にしては珍しく、申公豹は二の句が継げなかった。表情にはほとんど変化がない。けれど、驚いているのだということは、彼の目が少しばかり見開かれたことでわかった。

「……呪いみたいですね」

 やっとのことで彼が言ったのはいつもの軽口だった。でも腹は立たない。逆に彼らしいと名前は笑った。その通りよ、と。

「あなたの魂魄が安らかに封神台へ向かうことはないわ。責任をとってもらうまで、最期まで付き合ってもらうんだから」

「なんだかあなたが言うと本当にそうなりそうですね……怖い怖い」

 申公豹は身を震わす真似をした。人間の名前が道士の申公豹に敵うはずもないのに。
 けれどこのやり取りが心地よくて、名前は笑う。
 これは恋ではなく、愛でもない。
 それでももうこの手を離すことが名前にはできそうになかった。