殷の公主、終わりを感じる


 平穏は長くは続かない。
 わかっていたことだが、紂王がーー父が、再び妲己によって堕ちていく様を見るのはつらいものだった。
 名前は既に後宮を出た身。父のことも妲己のことも、隠されてしまえば知る術がない。紂王がいつの間にか姿を消していても、その身を案じることしかできなかった。

「恐らく妲己は紂王を改造しようとしているのでしょう」

 申公豹の言葉に、名前は食事の手を止めた。
 ーー紂王を、改造?
 それは到底人に使う言葉ではなかった。
 けれど申公豹が冗談を言っている様子もない。彼がそういう冗談を言う人ではないことも名前は知っている。
 だから。

「ーーどのように?」

 名前は居住まいを正し、静かに問うた。
 聞きたいことはいくらでもある。改造。それはどのようなものなのか。なぜそのようなことをしなければならないのか。
 けれどそれらは知ったところで名前にどうにかできる問題ではない。名前が知るべきこと、知らなければならないこと。これからのために、役立つこと。
 公主はそれだけを知っていればいい。

「それは周の進軍を阻むようなものなの?」

「うまくいけば足止めにはなるでしょうね」

 けれどそれ以上はないだろう、と申公豹は言外に言う。それ以上、革命を止められるほどではない、と。

「……それもそうよね」

 革命が失敗に終われば困るのは妲己の方だ。だからきっと紂王の改造も、殷の滅亡のために必要なことなのだろう。
 妲己の目的。そのおおよそのことを申公豹は既に掴んでいた。遊んでいるように見えてやることはやっているのですよ。彼はどこか得意気に言った。
 妲己。そして歴史の道標。彼女らは手を組み、世界を思うがままに操ろうとしている。殷が滅ぶのも、歴史の道標がそうあれと、それが正しい歴史なのだと考えたからだ。
 だから紂王は狂わされ、殷は乱された。そして周が興り、人々は戦いに身を投じた。すべてすべて、歴史の道標の望むように。

「……許せないわ」

「同感です」

 申公豹と珍しく意見が一致する。ただ彼の理由は「己の美学に反するから」というものではあったが。
 それでも、彼がいてよかったと思う。
 だから。
 だから名前は今、禁城にいる。
 兵も民も、そして紂王も。皆が牧野へと出征し、静寂に満ちた禁城。そこはかつて栄華を誇ったとは思えぬほどに寂れた雰囲気をしていた。
 これが滅ぶということなのだ。名前は懐かしい場所を巡りながら思いを馳せた。
 太師や武成王に稽古をつけてもらっていた幼少期。父も時折混じっては、二太子と共に汗を流した。その時から名前は太師に焦がれていた。恋という名はまだ知らなかったけれど、名前は彼が剣を振るう姿が好きだった。
 長じてからは兄弟と会う機会も減り、けれど後宮には黄氏がいたから寂しさを感じることはなかった。明るく優しい黄氏を姉のように慕っていた。黄氏もまた、名前を妹のように可愛がってくれた。
 妲己が現れたあと、後宮で過ごしていた時は息が詰まりそうだと思っていた。生きながらにして死んでいるようだった。そう、思っていたけれど。

「思い出すのは、幸せなことばかりね……」

 名前は広場まで出ると足を止めた。
 不思議なことだ。嫌なことやつらいこと、いくらでもあったはずなのに。幸せな日々を彩った人たちとは遠く離れてしまったのに。
 それでも名前はこの国が好きだ。この国も、父も。嫌いになることなんてできなかった。
 だから父が、紂王が、ひどくやつれた様子で禁城に帰ってきた時。驚きの後に生まれたのはなんとも形容しがたい悲しみであった。

「どうなさったのですか、父上……」

 牧野へと向かったはすの者たちは未だ誰一人帰還していないというのに。
 なのになぜ、紂王がひとりで。

「あぁ……名前か」

 それが紂王の声だと名前は最初わからなかった。ひどくしわがれた、老人のような声。それは間違いなく紂王から発せられているというのに、俄には信じがたかった。その声も、魂が抜けたかのような父の目も。
 禁城が開け放たれ、民が物資を求めて雪崩れ込むのも、残された兵が右往左往するのも、どうだっていい。
 それ以上に名前は紂王を襲った変化に意識を奪われていた。

「何が、何があったのです父上!戦は、兵は、」

 名前は紂王に詰め寄る。公主として知らなければならないこと。戦の結末。兵の安否。妲己の行方。
 名前が問い質しても、紂王は虚ろな目をしていた。虚ろな目を微かに動かして、名前を見下ろした。

「まだ、余を父と呼んでくれるのか……」

 その青白い顔に浮かぶのはどこか自虐的な笑み。それは名前の見たことのない顔だった。王でも父でもない、ひとりの人間の、何もかもを失った者の目だった。

「名前、お前だけでも逃げなさい」

 それでもやはり、彼は父だった。父として、名前に告げた。もうこの国に王はない。公主も、もう。
 けれど名前は首を横に振った。いいえ、と。

「わたしは殷の公主です。あなたの、紂王の娘。それを捨てることなど、わたしにはできません」

 だって、名前はこの国を愛している。世界のことなど知らなかったけれど。それでも、名前は自分の知る限りの小さな世界を愛している。父である紂王。優しい母。共に未来を夢見た兄弟。ーー憧れていた、強く気高い太師。彼らを、彼らが愛したものを、愛したもののいた国を、名前は守りたい。
 そのためならば、名前も己を犠牲にしたって構わない。太師がそうしたように。太師のように、守りたい。
 公主の言葉に、紂王は目を細めた。どこか眩しそうに。
 「そうか」と呟き、笑った。

「父上……?」

「余も、余の為すべきことを為さねばな」

 すっかり変わり果ててしまった姿の紂王。
 なのにその時、その瞬間、名前には彼が懐かしいものに見えた。妲己が現れる前の、懐かしい王の姿に。
 だから彼は剣をとる。

「さぁ……余と戦うがよい!若き道士よ!!」

 突如二人の前に現れた青年。名前は彼のことを知らなかったが、父が彼の名を呼んだことで察した。黄天化。武成王黄飛虎の息子。
 彼ならば、と名前は思った。彼ならば、紂王の最期の相手として相応しい。紂王が信を置いていた武成王。その子供ならば。

「父上、わたしは最後まで見届けます。最後まで……あなたと共に」

「……あぁ、」

 名前は人払いをした。誰にも邪魔されぬよう。父が最後まで王であれるよう。
 たとえそれを見届けられるのが名前だけだったとしても。

「余の負けだ、黄天化」

 父の体が朱に染まろうとも。
 名前は決して手を出さなかった。声を上げることも、泣くこともしなかった。
 ただ跪き、倒れた父の手をとった。

「父上、あなたはわたしの大切な家族です。たとえ誰になんと言われようと。あなたを愛しております」

「名前……」

 父の乾いた頬に涙が伝う。
 戦ってまで守るものがない。それが紂王の敗因だった。紂王も公主も、殷の終わりを感じていた。守る意思も可能性も最初からなかった。けれどだからといって手放しで切り捨てることもできなかった。
 そんな我が儘に付き合ってくれた黄天化は膝をつき、どこかすっきりとした顔をしていた。
 紂王にも公主にも抵抗の意思はない。けれど天化が紂王の首を落とすことはなかった。

「後は太公望師叔に全部任せるよ……」

 そう言い、疲れきった体を寝かせた。
 太公望師叔。周の軍師の名に、名前は目を伏せた。ーー終わりの時は近い。

「父上、身を清めましょう」

「あぁ、そうだな……。最後くらい、王らしくあらねばな」

「ええ……」

 紂王は頼りない足取りで、けれど確かに城の中へ入っていった。
 その間に、と名前は倒れた天化の体を背負い上げた。

「あーた、なにして、」

「ここに放っておくわけにもいかないでしょう?大人しくなさってください」

 名前は問答無用で天化を城内へと、かつて己が使っていた房室へと運んだ。安全なところなどどこにもない。が、せめて知っているところにしておきたかった。
 天化がそれ以上何かを言うことはなかった。紂王も公主も、逃げるつもりなどないと彼にはわかっていたからだ。
 だから彼は大人しく寝牀の上で横になった。名前が言った通りに。
 彼は「助かった」と名前に言った。名前に、殷の公主に。
 だから名前も微笑むことができた。迫る終焉を感じながらも、心穏やかにあれた。

「こちらこそありがとう、最期に出会えたのがあなたでよかった」

 父も、きっとそう思っている。武成王黄飛虎。父が、厚い信を置いていた男。彼によく似ているという黄天化に、最期を委ねることができてよかった。心から、そう思う。
 お陰で余計な血が流れることもない。
 名前は微笑みの裏で、このあとのことを考えた。
 最後に流れる血。それは紂王と公主だけであるように、と。