ブラックコーヒー

 完全に隙をついた――はずだった。

「……っ」

 しかし寸でのところで躱された。躱されてしまった。名前は内心舌打ちする。さすが――というべきか。
 男は口端を上げてわらった。「今のは惜しかった」……躊躇わず首を狙えばよかったものを。そんなことを嫌味な顔で嘯く男。打たれた脇腹を庇いながら、それでも名前を見下ろす男。
 それで確信が持てた。
 どれほど姿を偽ろうと。顔を、声を、存在を作り替えたとしても。名前には分かった。
 目の前にいる男――薄茶の髪に柔和に細められた目、ごく平凡な、優等生然とした若者が――この男こそが赤井秀一だと。
 名前は奥歯を噛んだ。赤井が生きている。それを知れたのはいい。いいのだけれど、でも時期が悪すぎた。だって今この時も透は彼の信念の元戦っているのだから(名前は素知らぬ顔をした。何も気づいてない、そんな顔をして過ごしてきた。透がこの件で何事か画策しているだなんて露にも思いませんでしたって顔をして。名前も透も気づかぬフリをしてきた)。
 ――なのに、それを壊そうとするなんて!
 認められるわけがない。許されるわけがない。
 名前は、また拳を構えた。油断なく窺いながら、わざわざ答えをくれてやる。

「……それでは意味がない」

 生かして捕らえる。この男に限っては、そうしなくてはならない。

「あなた、どうやって生き延びたの」

 そう問うた瞬間。
 空気が、変わった。
 騒動が起こる前は観光客で賑わっていた娯楽施設。それはもはや影も形もない。アンティーク調の通路が今では貧民街の裏路地と化している。今の名前は闇夜の中追い立てられる子どもか、あるいは狩人に追い詰められた獣であった。

「どうして、とは聞かないのか」

「必要がない。私がほしいのは手段。――誰の、助けを借りたの」

 真っ先に浮かんだのはキール――赤井に直接手を下した女性だ。しかしその場にはジンもウォッカもいたというから、少なくとも彼女だけでは実行は不可能だろう。キールが関わっていても、いなくても。赤井の背後には誰かがいる。ジンすら欺く誰かが。
 ……想像しただけでぞっとした。もしも。もしもそれがもう既にそこまで迫っていたとしたら?もう、この列車に乗り合わせていたとしたら?
 「俺ひとりでは無理だとでも?」片眉を上げる男。挑発するような仕草に、名前は拳を握り締めた。

「……あなたひとりだと言うなら方法を隠す必要がない」

 男はフッと笑った。気障ったらしい笑み。いつだって余裕ぶるのはそれで相手を引きずり下ろすためだ――それがこの男の常套手段。感情を揺らせば、付け込まれるだけだ。
 それを名前が理解していることを男も気づいていた。気づいていてなお、男は笑う。

「君はなんのために組織に尽くす」

 一瞬、何を問われたか分かりかねた。しかし男がそれ以上を見せなかったから、名前は自分が正常であると知った。「……なにを、言っているの」こんな時に。そう思いながら、頭は警鐘を鳴らす。
 名前はもう、男の術中に嵌まっているのだと。
 男は繰り返す。低く、落ち着いた声で。まるで、真理を知る者のように。名前に問う。

「君こそ、そこまで組織に忠義を尽くす必要があるのか?」

「私は、」

 悔しいことに、空気にのまれていた。私は。そう言った名前の声は掠れていた。それが悔しくて、かき消すように声を上げた。「私がここにいるのはバーボンのため、それだけでじゅうぶんなの」真っ直ぐに。男へと、ナイフを突き刺すように。
 だのにやっぱり男は笑った。笑いながら、名前を憐れんだ。

「ずいぶんとおしゃべりになったな、飼い主に似てきたってところか」

「それは、どうも」

 男は動かない。構えることもしない。「俺に彼を殺すつもりはない、ここは引いたらどうだ?」そう言って、証拠とばかりに手を挙げた。
 名前は、唇を引き結んだ。

「……信じられると思う?」

「なるほど、君らしいな」

 途端、男の目が変わった。覗く瞳は、深淵。あぁ、やはり。名前は深淵を見つめ返した。溢れる殺気。生存本能は引けと言っている。しかし、名前は構えを解かない。むしろその逆。

「透のところには行かせない……!」

 直線。飛び込み、傷を負ったはずの場所に拳を振るう。男は身を引く――と見せかけて、拳を受け流す。名前の身体が男の隣を流れる。男はそのままの動作で、名前の腹に肘をめり込ませようとした。
 けれど。

「……ちっ」

 そうくるのは分かっていた。名前は床を掌で打ち返し、体を回す。そうすれば男の背は目の前だ。だがことがそううまく運ぶわけがない。男はすぐに反応した。振り向きざま、拳が宙を切る。名前が顔を逸らす。それを見込んで、男の足が床を蹴る。
 「……くっ」名前も応えた。咄嗟に腹を守ったのだけれど。それでも男の重い蹴りは流しきれなかった。呻き声を必死に殺す。その間にも男は動く。腹を庇って屈んだ名前の顔面めがけて腕を振るう。名前は痛みを殺して飛び退くしかない。
 体制を立て直す間もなく男は一打二打三打と拳を放つ。名前は腕で受け、流し。ひたすら隙を窺う。頬を掠め、皮膚が裂け、血が飛ぼうとも。男を先に行かせるわけにはいかなかった。
 そこからの攻防は泥臭いものだった。男が名前の腹を殴り、名前が男の顔面を殴る。男が名前の首筋に蹴りを入れれば、名前は男の股座を蹴り上げた。あとはどちらが先に倒れるかだった。その時点で、勝敗は決していたのだ。
 床に転がされた名前は、立ち上がるよりも先に男にその背を踏みつけられた。「手こずらせてくれたな」男はそう言って、名前の背に座り込んだ。名前も口を開いた。けれどそこからはか細い息が漏れるだけだった。視界がいやに狭い上、ぼやけて見えた。痛みはもはや遠くにあった。それでも名前は足掻いた。床に爪を立て、唇を血が出るほど噛んだ。「大人しくしてくれ」男が溜息を吐く。と、名前の片足が掴まれた。それは感覚として分かっただけで、地に伏す名前には事の次第は見えない。そう、なにも。それは暗闇の中にいるのと同義だった。
 「な、に」ひゅーひゅーと喉の奥で風が吹いている。男の手が名前の足を持ち上げる。そして、空白。
 痛みは、そのあとで来た。

「ぐっ……ぁ、」

 折られたのだ――ということは理解できた。それも深く。しかもそれは一度だけではなかった。
 二度。痛みは治まる間もなく再び訪れた。その時点で、もはや名前の両足は切り落とされたようなものだった。どんなに地を這っても、前に進めない。身体の半分が奪われたのだから。
 それでも名前は男に追い縋ろうとした。ぼろぼろと溢れる涙と痛みで歪む視界のなか。霞ゆく男に手を伸ばした。男は名前の前で屈みこんだ。「君は、」男がどんな顔をしているのかももう名前には見えない。

「君はそうまでして彼に捨てられたくないんだな」

 ――しかし、それは正しいといえるのか?ただ盲目に付き従うだけの、それは。
 男は続けた。「目的がないのなら俺のところに来い」その声は、やはり名前を哀れむ色をしていた。
 名前は口を開いた。だが何かを発する間もなく、名前は意識を手放した。首筋に痛みが走った後だった。
 それでも名前が最後に思ったのは透のことだった。ただ彼のことだけを案じて眠りに就いた。