ゼロ時間へ

 ――名前が倒れている。
 俺は駆け寄り、抱き起こす。「名前、名前、」まっしろなかお。(それは、まるで、)慌てて手首に指をやる。……脈はある。よく見れば胸は微かに上下しているし、耳をすませばかぼそい呼吸音も聞こえた。だけど、そんなことにも気がつかなかった。

「名前、」

 何度目か。瞼が震える。琥珀の目が覗く。「……っ」でもそれは望んでいたものじゃない。(名前の目はもっと、)ぼやけた瞳。焦点の合わない眼。そこに輝きはない。
 ――胸が、つまる。
 俺は何も言えなかった。言うのが怖かった。もし、何の反応もなかったら。俺はただ、彼女の手をきつく握りしめた。逃げていく温度に追い縋った。
 なのに名前は、血に濡れた名前は、それでも唇を震わす。「とおる、」それはなにより尊く美しいものだった。俺は名前を抱き締めた。「しゃべらなくていい」話してほしい。もっと。その声を聞かせてほしい。安心させてほしい。そんな本心を見透かしたように、名前は言葉を止めない。

「とおる、へいき……?」

 息をのんだ。この後に及んで、彼女は。「ああ、平気だよ」俺は名前を抱き上げた。「俺は平気だから、だから、」落ち着け。そう自分に言い聞かせ続けないと今すぐ走り出してしまいそうだった。「大丈夫だ、名前」ひゅーひゅーと喉を鳴らす彼女。嫌な想像がまた首をもたげてくる。頭から離れない。

「すぐ治してやるから」

 名前は首を振った。「いいの、それより、」話し終えると、彼女の身体からふっと力が抜けた。歪んでいた表情が安心したように緩み、ひどく安らかな顔でゆっくりと目を閉じた。唇の間から長い息が漏れた。それは肺の中の何もかもが抜け出ていくようだった。
 そうして彼女は――、

「……っ、」

 目が覚める。
 いつの間にかきつく握りしめていた手は、持っていた書類をぐしゃぐしゃにしていた。開くと、じっとりと汗ばんでいる。寒いはずなのに、シャツが背中に張り付いていた。
 嫌な夢だ。けれど悪夢は続いていることを俺は知っている。

「名前……」

 目の前のベッドで、名前は眠っていた。腕からはチューブが伸び、両足は固定され吊り上げられている。頭に巻かれた白い包帯。傷んだ身体を覆う白い病院着。シーツもベッドも床も壁も何もかもが白い。名前の頬でさえ。
 俺は皺になった書類を仕舞った。こんなもの――つまりは昨日のあれこれについての――を持っていたからあんな夢を見たのだと思った。代わりに名前の手を握った。それは昨日とは打って変わってひどく熱を持っていた。怪我からくる発熱。治るために必要なものだと分かってはいるが、それでも。
 頬に張り付いた髪を払ってやる。心なしか艶やかだったはずの髪からも光が失われているように見える。胸が痛んだ。同時に、彼女をこうまでした者への憎悪もよみがえる。

「赤井、秀一……」

 その名を口にするだけで吐き気がした。彼の自殺を止められなかった男。そればかりか、今度は彼女までを。
 名前は傷つきながらも最後まで俺を気にかけた。その上、情報まで与えてくれた。「赤井秀一がいた」苦しげな名前の声。「気をつけて、透」そう言って、彼女は意識を失った。この瞬間の絶望といったら!思い出しただけで、背筋を嫌なものが走り抜ける。
 彼女の言葉はベルモットに伝えなかった。もちろん、組織にも。名前が言うことを疑っているわけではない。その逆だ。信じているからこそ、俺も赤井秀一が生きていると思ったからこそ、隠した。赤井を組織に売りはしない。あの男は、俺が捕らえる。俺の国を荒らし、あまつさえ――そんな男には正当な裁きを受けてもらわねば。
 ベルモットには邪魔が入ったことだけ伝えた。名前を昏倒させるほどの邪魔者。彼女は深くは聞いてこなかった。「貸しにしておいてあげる」大女優は笑い、そして俺の腕で眠る名前の頬を撫でた。「こんなに傷を作るなんて、バカな子」悪魔のような女なのに、その時は母親のような顔をしていた。

「安心してくれ、名前。俺がヤツを捕まえてみせる」

 名前の手に額を当て、祈るように誓った。
 すると、その指先がぴくりと動く。はっとして顔を上げると、名前が目を開けていた。どこか遠くを眺める、ぼんやりとした目。「名前、」呼ぶ声は、みっともなく震え、ちいさな囁きになっていた。それでも名前の耳には届いたらしい。天井に投げかけられていた視線がぐるりと回り、俺の前で止まった。

「とおる……?」

 ああ。答えは吐息に紛れた。ああ。もう一度、今度は大きく頷く。すると名前はぎこちなく微笑んだ。「よかった」透がいる。熱に潤む目は、それでも確かに生きていた。鼓動を刻んでいた。
 俺も笑いかけた。怪我をしているわけでもないのに、名前よりも不格好に笑った。「いるよ、どこにも行きやしない」名前の手が、ゆるく握り返してくる。それすら奇跡のように思えた。
 名前ははにかんだけれど、すぐに眉を下げた。「でも私、透にひどいことをしているの」これ以上に酷いことなんてないさ。冗談っぽく言っても、名前の顔は晴れない。

「透に隠してることがあるの。だから、」

 これは罰なのだと名前は悲しげに言った。窓の向こうは穏やかな午後の光で溢れているのに名前には届かない。冷たい白に包まれて、名前は泣く。

「そんなことはどうだっていい」

 俺は目尻に溜まった雫を指で掬い上げた。「どうだっていいんだよ、名前」彼女は俺を見上げた。不思議そうに、疑問を湛えた目。
 だから、俺は朗笑してやった。

「知っているだろう?僕は探偵なんだ。名前に秘密があろうとそんなものはすぐに解き明かしてやる。だから好きに隠せばいいさ。そんなものは無意味なんだから」

 ことさらおどけて。片目を瞑ってみせると、ようやく名前はこわばった顔を緩めた。ほっと息をつく。「透は、すごい」感嘆。「そうだよ、僕はすごいんだ」名前の指先に唇を落とす。この温もりがひどく愛おしい。うしないがたい。その思いも、素直に受け入れられた。そうだ、俺は名前を愛しいと思っている。だからなんだというんだ。
 名前はくすぐったそうに笑った。子どものように無邪気に笑った。俺もただの降谷零として応えた。なによりも尊いものはこの手の中にあった。