天化と少女


 趙公明を倒した後。
 太公望は通天教主に和睦を申し込むと言い出した。聞仲の気配のない今ならば通天教主も停戦に応じるだろう。太公望はそう考えたのだ。
 至極真っ当な意見。しかし金鰲島出身の少女の顔は晴れない。そううまくいくのかしら。思案げに、けれど食事を作る手を止めることなく彼女は呟く。

「どういうことさ?」

 山芋の皮を剥きながら天化は訊ねた。
 意味深な名前の言葉。太公望が単身金鰲島へ向かった今、彼女の発言は聞き逃すことのできないものであった。
 名前は顔を上げた。いつもなら天化と目が合うだけで喜色満面となる少女。しかし今は浮かない顔で口を尖らせた。

「だって金鰲島は妲己の出身地でもあるのよ?彼女が停戦なんてさせるのかしら。むしろ今までの言動からして戦をけしかけそうなものなのだけれど」

「まぁ確かに……」

 妲己は策士だ。周の軍師太公望が裏をかかれたことがあるほどに。
 そんな彼女が太公望に隙を見せるだろうか。
 そこまで考え、天化はハッとした。

「でもそれっておかしいさ。妲己は殷で好き勝手やってんだろ?戦争になって……殷が負けたら后の妲己だって困るはずさ」

 それはいつぞやか。天化の父、黄飛虎が抱いた疑念に対するのと同じ答えだった。同じ答えを返しながら、けれど天化もまた引っ掛かるものを感じていた。
 妲己の行動は矛盾しているーー?
 混乱する天化に、名前はゆっくりと頷いた。天化の言う通りだ、と。「普通に考えたらそうね」そう、妲己が普通ならば。

「でも私には彼女が殷を滅ぼしたがってるようにしか見えないわ。彼女の行動は王家への不満を煽るものばかりだもの」

 だからこれまでは聞仲とぶつかり、敗北の度に逃亡していた。
 殷を守りたい聞仲。彼と敵対するということはつまり妲己は殷に仇なす者ということで。そして彼女が殷に居座る以上、殷は滅びの道を歩まざるを得ないということで……。

「やべぇ……、頭がこんがらがってきたさ……」

 天化は頭を抱えた。元からそういうことには向いていないのだ。根っからの武人、その性質を、天化は父親からしっかり受け継いでいた。
 唸る天化の頭を名前は撫でた。「悩む天化くんも素敵だわ」なんて言いながら。彼女の頬はいつも通り、すっかり緩んでいた。

「ま、こんなのは考えたってしょうがないことよね。どちらにせよ殷と周の戦いは避けられないんだし」

「だからせめて金鰲との全面戦争だけは避けたいんだろうな、師叔は……」

 太公望は軍師だ。頭が回るし奇抜な策も思い付く。戦上手と言ってもいい。
 だがそれは本人の望むところではなかった。未だに彼は無駄な犠牲を払わなくて済むよう頭を巡らせている。そうしなければもっと楽に勝てるだろうに、だ。
 だから今回も危険を承知で停戦を申し込みに行った。
 そう、危険なことは天化だってわかってる。天化だって、他の誰だって。
 けれどその中の誰よりも名前の顔は険しかった。
 それで、天化はピンときた。

「まだ気にかかることがあるさ?」

 そしてそれは正解だった、らしい。
 彼女は少し躊躇った後で、「……太公望には既に伝えてあるのだけど、」と切り出した。

「ここのところ……10年20年くらいかしら?通天教主さまのお顔を見ていないのよね。金鰲に行ってもいっつも十天君が邪魔してきて会いに行くこともできなかったし。だから、もしかしたら……」

 名前の言葉は驚くべきものだった。
 通天教主。金鰲島の纏め役が表に出なくなった。なのに理由も伝えられず、事情を知っているらしい十天君が通天教主との謁見を阻む。それがどれほど異常なことか。
 彼女は言葉を途中で切った。もしかしたら。その続きは聞かずともわかった。
 もしかしたら、通天教主は既に亡くなっているのかもしれないーー
 そしてそれを隠しているということは十天君も一枚噛んでいるということだろう。あくまで通天教主が亡くなっているという仮説が真実であるならば、の話だが。
 だがそれが正解でなくても金鰲島内部で何かが起こっているのは間違いない。そんななかに崑崙の道士が単身で乗り込もうとしている。
 天化はひんやりとしたものが背筋を流れるのを感じた。

「それってかなりヤバいんじゃ」

「だから太公望に言ったの。無駄足かもしれないし、ヘタしたら罠かも、って」

「だったら」

 なぜ止めなかったのか。
 言いかけた天化を、名前は目だけで制した。

「でも太公望は行ったわ」

 そういう人でしょ、と彼女は言う。
 けれどその声は突き放したものでは決してなく、むしろ呆れとか諦めとか、そういったものでできていた。仕様のない人ね、とでも言いたげに。
 その表情に、その語調に、天化の胸が微かに軋んだ。小骨が刺さったような不快感。天化は知らず眉をひそめた。
 そしてまた珍しいことに、名前は天化の様子に気づかなかった。運の悪いことに、彼女は休めていた手を再び動かし始めていたのだ。
 皮の剥かれた山芋を、甘葛煎で満たした鍋で煮始めながら、名前はぼやいた。

「まったく。せっかく私が忠告してあげたっていうのに、ちっとも聞きゃあしないんだから」

 それでも名前が真に怒っているわけではないことくらい天化にもわかる。わかるほど、天化は彼女と共にいた。始まりは確かに名前からではあったけれど、今ではこうして自分から彼女の隣を選ぶくらいには、天化は彼女を受け入れていた。
 なのに、今の彼女は太公望を思って、太公望のために、胸を痛めている。
 それはひどく居心地の悪い感覚であった。

「……師叔なら大丈夫さ」

「そうだろうけどーー」

 そこでふと、名前は眉を下げた。

「でも太公望に何かあったら天化くんは悲しむでしょ?」

「……それ、は」

「あ、でも安心して!太公望に危険が迫ったら私が速攻で倒してみせるから!!」

 名前は勘違いをしているらしかった。
 天化の表情。空気。その湿っぽさの理由が太公望を案じているが故のものであると。
 そう信じ、彼女は力こぶを作る真似をした。大真面目な顔で。
 その仕草と少女の容貌の似合わなさに、天化は思わず噴き出した。いつの間にか、胸の違和感は溶けていた。
 笑う天化に名前も安心したらしい。
 けれどほっと息を吐いた後で、すぐに肩を落とした。

「あーあ、こんなことならもっと金鰲のことにも気を配っておくべきだったわ」

 悔しい、と彼女は顔を歪める。
 それを宥めながら、天化は記憶を辿った。かつて彼女が話してくれたこと。こちらに来る前の彼女のことを。

「そういやほとんど人間界にいたんだっけか」

「そ。聞仲さまの命でね。辺境の警備とかさせられてたわ」

 仙道になる前、名前は殷で生活していた。その中で聞仲に見出だされ、金鰲島で修行を積むことになったらしい。
 だからなのか。聞仲の少女に対する信は厚かった。そのために彼は名前に国境の警備を任せていた。そこで彼女は遊牧民との小競り合いを長いこと続けていたのだと言う。

「朝歌にいればもっと早くに天化くんに会えたのに……」

 名前は不満を口にするが、天化はその時に彼女と出会っていなくてよかったと思った。彼女のことだ。道士になる前の天化などには欠片も興味を示さなかったろう。だから、出会ったのが今でよかった。そう考え、それ以上のことーーたとえば理由だとかについては考えないようにした。

「ほんっとやんなっちゃう。せっかく金鰲から寝返ったってのになぁんにも手札がないんだもの」

 天化がモヤモヤしたものを追い出そうとしている間、名前はまた溜め息を吐いた。手札ーー有益な情報がない、と。
 彼女にしては弱気な調子で、「ごめんね」と困ったように笑んだ。

「私、本当に興味なかったの。そりゃあ殷には私の血族が住んでるから手を貸してはいたけど。でももう知ってる人なんて生きてないから、聞仲さまほど思い入れもなかったし」

 名前に目的などなかった。やりたいことも。
 ただ淡々と、黙々と、彼女は下された命をこなしていた。それ以外の道を知らなかったし、考えようとも思わなかった。
 ーー天化と、出会うまでは。
 だからありがとうと彼女は何度でも言う。「ありがとう、天化くん。私を負かしてくれて」ーー私に、目的を与えてくれて。
 名前は眩しすぎるほどの真っ直ぐさで天化に微笑む。本当に、心底幸せだといった顔で。
 それから、「まぁそんなわけで通天教主さまや十天君に何があったってどうでもよくて……」と決まり悪そうに視線を流した。

「そういえば聞仲さまにも報告してなかったような気がするわ。だから……うん、もしかしたらそれが原因で今ごろ聞仲さまと十天君は仲間割れしてるのかも。十天君は十天君でなんか企んでるっぽかったし」

「そこで共倒れしてくれりゃあこっちとしては楽なんだけどなぁ」

 天化は出来上がったばかりの薯蕷粥を鍋から掬いとった。そして一口。「うん、うまい」それだけなのにーーそれだけで、名前の顔は綻んだ。
 それから彼女は空を見上げ、ぽつりと溢す。

「本当にそうなってくれたらいいんだけど」

 そう上手く事が運ぶわけがない。
 天化も名前も、そんなことはわかっていた。