殷の公主と終焉と誕生
殷の終わり。周の始まり。
人々の歓声のなか、名前は目を閉じた。
そうでもしないと涙が溢れてしまいそうだった。
名前は武王が禁城にまで辿り着くのを待っていた。父、紂王と共に。
禁城の警備は既に解かれ、王族を守るものは何もない。
それでも、現れた武王が落ち着き払った様子だったのには驚かされた。最早戦いになどならないと双方わかってはいるが、それでもここは禁城。敵の中枢だ。
にも関わらず、武王は悠然とした足取りでやって来た。武王も、その家臣たちも。
その姿に、名前は殷の終わりと周の始まりを感じた。彼が新たな王であると。そう思わずにはいられなかった。
たぶんきっと、紂王も。
「太公望師叔と天化くんは……」
「お二方ならば今は城内に。黄天化どのは怪我をしておりましたから」
ですがじきに戻るでしょう、と名前は端整な顔立ちの男に答える。そうすると彼はわかりやすく安堵を示した。
それがまた不思議で、おかしくてーー仮にも敵である公主の言うことなどを信じるなどーーと思っていたのに、それだけでは終わらなかった。その男は名前に対し頭を下げたのだ。ありがとうと、そう言って。
「……おかしな人」
でもーー。
「あなた方に幕を下ろされるなら悪くないわ」
「公主……」
男は名前を知っているらしかった。きっと太公望から聞いたのだろう。彼には申公豹と共にいる時に出会っていたから。
ーー申公豹。彼は今頃どこで何をしているのだろう。
牧野に向かったことは知っている。けれどその後の行方はわからない。彼のことだ、どこでだってやっていけるだろう。それに名前の最期くらいは見守っていてくれるだろうと、そう根拠はなくとも思えた。
「おまえが武王か……」
歩み寄った男に、紂王は呟いた。その顔には笑みすら浮かんでいて、名前の胸は痛んだ。
紂王の、父の気持ちは名前が一番わかっているつもりだった。そして名前の気持ちを理解してくれているのも紂王であると。
「余にはもう何の力も残ってはいない。だから……」
だから紂王が「公主を頼む」と言った時、名前の頭は真っ白になった。
「何を……、何を言っているのですか父上!!」
名前は紂王に詰め寄った。今にも掴みかからんとする勢いで、名前は問い質した。
だがそうしても紂王の表情に変化はない。名前の怒声も聞こえていないかのように。紂王は目を閉じたまま、なんの抵抗も示さなかった。
それは同時に彼の意思の固さも表していた。
「最期まで共に在ると、約束したではありませんか!許して……くれたではありませんか……」
名前はずるりと膝を折った。頽れた、といってもいい。
「そうだな、その通りだ……」
紂王の体は驚くほど弱々しく見えた。なのに名前が何を言おうと、何をしようと、その意思を砕くことができないのだとわかった。わかってしまった。親子、だからこそ。
「だが余とて最後くらいは父らしくありたいのだ。……許してくれ、名前」
そう笑う父の気持ちが、痛いほどわかってしまった。
だから名前はそれ以上何も言えなかった。子を、自分の生きた証を残したい。紂王の望みは至極当然のものであった。
けれど名前にもまた譲れないものがある。殷の公主として生きて死ぬ。務めを果たす。これまで何もできなかった責任をとらねば気が済まなかった。
そう、唇を噛む名前の上に影が落ちる。
「……それなら、俺がやってやるよ」
逆光のせいで、顔を上げた名前には武王の表情が見えなかった。ただその言葉だけが、彼の手にした剣のきらめきだけが、名前の目に焼き付いた。
「武王!?」
戸惑いと驚き。それを発したのは誰だろう。彼を止めようと伸ばされた手は誰のものだろう。
名前にはわからない。武王に目を奪われた名前には。
「……お願い、」
名前は目を閉じ、やりやすいように顎を上げた。
痛みは一瞬だ。暗闇の中、名前は幕が下ろされるのを待った。
剣を振りかぶる音。空気を裂く音。そして、
「え……」
何かを切る音はした。けれどそれは決して首が落ちるほどの重さはなく、思わず目を開けた名前の視界も以前と変わりなかった。
変わったことといえば。
「……償いってんならこれで十分だろ」
武王と名前の間には、黒々としたものが広がっていた。それが自分の髪であることに名前はようやく気づいた。
頭に手をやる。と、重いと感じるほどの長さだったそれがどこにもなく、手は宙を空しく掻くだけだった。
「どうして……」
「……俺に女を殺す趣味はねぇ。それに、あんたほどの女を失うのはもったいねぇだろ」
それだけだ、と武王は言った。言って、紂王と視線を合わせた。
二人はなんの言葉も交わさなかった。けれど紂王は深々と頭を下げた。殷の天子たる紂王が。
それを武王は受け止め、黙したまま緩く首を振った。
そのまま二人は最期の場へと向かっていった。名前にはただそれを見送ることしかできない。武王に赦されてしまった、名前には。
「わたしに、どうしろっていうの……」
名前は殷の公主だ。それ以外の何者でもなく、何者にもなれず。だからこそせめて殷の公主として最期を迎えたかった。殷の公主として、乱れた世の責任を取りたかった。
それがなくなってしまったら、もう名前には目的がなくなってしまう。なんのために生きるのか。どうして生きているのか。もう、わからなくなってしまう。
「それがおぬしの罰と思えばよいのではないか?」
名前に答えを与えたのは、いつの間にか戻っていた太公望だった。
ゆるゆると顔を上げた名前に、太公望は膝をついて目線を合わせた。そして何も為すことのできなかった名前の手を、なんの躊躇いもなくとった。
「公主以外を知らぬのだろう?ならばそれ以外を知るのが……周という新たな国で己の居場所を掴むのがおぬしに与えられた罰だ」
「わたしの、罰……」
「そうだ」
太公望は深く頷いた。
それから「そもそも……」と肩を竦めた。
「既に嫁した身であるおぬしの首など、民も求めてはおらんよ」
辛辣にも聞こえる言葉。太公望は元公主の首に価値などないと言い切った。
それもそうかもしれない。表に出ることもない公主のことなど、民衆は存在すら知らない。どんな顔をしているのかもどんなことをしていたのかも。そんな人間の首など貰ったところでしようがない。太公望の言葉を否定する材料が名前にはなかった。
だから名前は民衆に紛れて見守った。武王と紂王。彼らが城壁の上に立つのを。武王が紂王に剣を向けるのを。
ーー紂王の首が、はねられるのを。
名前は目を反らすことなく見守った。最後の最期まで。紂王が、父が、最後の務めを果たすのを、ひとつ残らず目に焼きつけた。そうするのが紂王の娘として為すべきことだと思った。
何より名前自身がそうしたかった。父の、最期を。皆にその死を望まれた紂王の最期を。名前だけは拳を握り締めながら見届けた。
父が最後に何かを言うことはなかった。けれど、最期の瞬間。遠く離れているはずなのに、目が合ったような気がした。すまない、と。それから、生きろと。言われたような気がした。
「戦は終わったぜ!!周の勝利だ!!!」
武王の宣言に声が上がる。殷の終わりと周の始まりを喜ぶ声。沸き立つ民衆の中で名前はひとり、目を閉じた。そうしないと涙が溢れてしまいそうだった。
「これからどうするのですか?」
不意に背後に現れた気配。今ではもう聞き慣れたその声に、名前は顔を歪めた。
「あなたは、知っていたのね」
こうなることを。名前が、公主が、生かされてしまうことを。
知らないはずがない、と名前は思った。だって彼はーー申公豹は、そういう人であるから。
最期まで付き合うと言ったくせ、今の今まで彼は姿を現さなかった。それが何よりの答えだった。名前の最期はここではない。そう、彼は知っていたのだ。
なのに彼は否定する。「私は歴史の道標ではありませんから」知るよしもない、と申公豹は笑う。
笑って、いつかのように名前の手をとった。いつかのように冷え、力を失った名前の手を。
「でもまぁ、責任くらいはとってあげますよ」
掴み、引き寄せる。
申公豹の腕の中。道化だというのに、彼の体は名前をすっぽり被えるほどに大きかった。大きく、温かかった。
「……信じられないわ。みんな、嘘ばっかり言うのだもの」
父も、太師も。名前と約束したくせ、結局最後は己の意思を優先した。名前を放って、遠く旅立ってしまった。名前の、手の届かないところまで。
「私が嘘を言うように見えますか?」
「あなたほど信じられない人もいないわ」
「ひどいことを言いますねぇ」
そうだ、道化なんて信じない、信じられない。彼の言うことなんて。
なのに名前は彼を突き放すことができなかった。もう傷つきたくないと思っていても、それでもまだ彼の手を離すことができなかった。手を離すことができないと、以前からわかっていた。
「……信じないわ、あなたのことなんて」
信じないと繰り返しながら、名前は彼の肩に顔を埋めた。
流れ出る嗚咽。溢れ出る涙。申公豹は何も言わず、名前の好きにさせた。
よく晴れた朝だった。清々しいほどの青空だった。
高揚する民衆の中、名前は申公豹の腕の中で泣き続けた。たったひとり、紂王を思って。