妹弟子と見知らぬ感情
太公望が周の隊列を離れ、代わりに楊ゼンが軍師代行となる。
それ自体にはなんの不満もなかったし、あわよくば楊ゼンが封神計画を成し遂げてくれれば……とすら思っていた。楊ゼンこそが仙界一の道士と疑わぬ名前であったから、この機に乗じてより一層名声を高められたらと考えたのだ。
けれど名前はその先のことを考えていなかった。
太公望の代わりとなる。それは即ちこれまで太公望がやっていたことまで楊ゼンが肩代わりするということで。生真面目な彼が軍師代行となったことで何をするかまで思い至りもしなかったのだ。
ーーだから。
「むー……」
名前は拗ねていた。それはもう、大人げなく。幼子のように頬を膨らませ、それでも楊ゼンの妹弟子としての看板に傷がつかぬよう手だけは動かしていた。
殷への旅の途上。昼食を作る名前の遥か前方。小高い山々の並び立つ辺りでは大きな物音が鳴り響き、目視できるほどの土煙が舞っている。
周の道士たちが訓練をしているのだ。ーー指導者に楊ゼンを据えて。
そこに不満はない。楊ゼン以上の才人を名前は知らないし、彼以外に適任者はいないから、ただでさえ忙しい彼に手間を取らせることになるとはいえ致し方のないことだと名前は自分を納得させていた。
けれど、認められないこともあって。
「なんでわたしばかりが仲間外れ……。わたしだって楊ゼンさまと戦いたいのに……」
唇から溢れる恨み言。元来体を動かすのが好きな名前にとって、皆が修行に励むのを見ているしかないのはこの上ない苦痛であった。
そうぶつぶつ呟く名前に。
「それは俺っちだって一緒さ。俺っちだってせっかくの機会、楊ゼンさんと真剣にやり合ってみたかったのに」
同意を示したのは、隣で同じく昼食の支度を進める天化であった。顔に似合わず手先の器用な彼は料理の方の腕前も確からしく、危なげない手つきで素早く仙道たちの食事を準備していた。
だが納得していないのは名前と同じ。不満げに口を尖らせる姿は名前とそっくりで。二人は顔を見合わせ、溜め息を吐いた。
「やはり楊ゼンさまの気を引くには宝貝人間に勝つしかないのでしょうか……」
「それはあるな。楊ゼンさんとまともにやり合えるのは宝貝人間だけさ。そこを落とせば自然と楊ゼンさんも……」
「ええ……、修行相手がいなくなれば自動的にわたしたちが出ざるを得ませんものね」
解決方法は歴然としていた。宝貝人間ーーナタクに勝ち、彼を戦闘不能にすれば。自然名前や天化といった戦闘要員が出ざるを得なくなる。
そう、手段は明確なのだ。だがそれが上手くいくかどうかはまた別の問題で。
「はぁ……、簡単に改造強化できる宝貝人間が羨ましいわ。わたしも遠距離武器を用意してもらおうかしら」
「俺っちの火竜ヒョウもなぁ……。もっと細かいコントロールができたり、それか勢いがもうちょい速ければ……」
名前はその手段があまりに困難であるのを知っていた。名前も、天化も。
だから再び深い息を吐き、空高く飛び回るナタクを憧憬の滲む目で眺めた。
名前も天化も得意とするのは接近戦だ。だから空中戦に持ち込まれただけでナタクに勝つのは難しくなるし、決定打に欠けることになる。
とにかくナタクとは相性が悪いのだった。楊ゼンの哮天犬や蝉玉の五光石のような宝貝があればまた別だが……。
しかし、これから新たな宝貝を手に入れたとして。封神計画も終盤となった今、それを使いこなすまでの猶予はないだろう。
「……とはいえ文句ばかり言っていても仕方ないですよね」
「だな、」
ならば自身の基本技能を高めるしかあるまい。
名前が肩を竦めると、天化もまた常通りの明るさで笑った。
そうした後で、彼は釜竈にかけた甑を開けた。そして中で蒸していた粟に竹串を立てる。「うん、ちょうどいい」粟はラオファン……煮て、せいろで蒸すのが当たり前の炊き方だった。
「こちらもいい具合ですよ」
名前は名前で自身が担当していた釜を開け、味見をする。菜羹ーー野菜だけの羹は粗食と軽蔑されることもあるが、それは人間界だけの話。仙道にとってはごく当たり前の食事であった。
そしてこれで名前たちの役目も終わり。手持ち無沙汰となるわけで。
「先程の件ですが、」と名前はそろそろと天化を窺い見た。
「別に修行を禁止されたわけでもありませんし、皆さんが帰ってくるまでわたしと……」
手合わせをしてくれませんか、と。名前はそう申し出るつもりであった。
けれど、その言葉が最後まで音になることはなく。
「おや、いい匂いだね」
先刻まで気配すらなかったはず。にも関わらず、不意に現れた楊ゼンはそうという空気を微塵も感じさせず、名前の肩越しに釜の中を覗いていた。
びっくりした。胸を押さえる名前と目を丸くしている天化を無視して、楊ゼンは続ける。
「さて、昼食にしようか。……天化くんはみんなを呼んできてくれるかい?」
「あ、あぁ……」
天化は面食らったようだった。呆気に取られたという表情。そのままに、彼は名前を気にしつつも立ち去っていった。
そして取り残された名前はといえば。
「ええっと、楊ゼンさま……?」
「ん?なんだい?」
「いえ……、」
小首を傾げる楊ゼン。その輝くばかりの容貌は微笑みを描いているのだけれど。その柔和さとは裏腹の空気がーー気迫というか、有無を言わさぬ雰囲気というか。そうしたものに押され、名前は言葉に詰まった。
だから彼が、「ところで名前、」と切り出してくれた時には少しばかりホッとした。名前にはその違和感の原因や理由といったものが思い至らなかったし、どうすべきかという術すらもわからなかったからだ。
けれどそんな考えは次の言葉で吹き飛んだ。
「食事が終わった後時間ある?……久しぶりに修行つけてあげるよ」
「ほ、本当ですか!?」
思わず。身を乗り出し、食いついてしまう。ここに鏡はないから見ることはできないけれど、きっと今の名前の顔は輝いていたろう。それはさながら正月の華やかな祭りを迎えた子供のように。
期待と歓喜に目を輝かせ、そうしてから。
「あぁでも、楊ゼンさまはお忙しいでしょう?お昼の後くらい休息を取られた方がよいのでは……」
楊ゼンは軍師代行だ。太公望がこれまでこなしていた仕事だけでなく、それまで楊ゼンが担っていた仕事も変わらず行わなければならない。となれば彼の負担は以前よりも増えているというわけで。
そんな中で修行をつけてもらうということは、名前の我が儘に他ならないわけで。ようやくその考えに辿り着き、名前は顔を曇らせる。
「……大丈夫だよ」
けれどそう言った名前に楊ゼンは柔らかく笑んだ。頭に手を伸ばしかけ、そしてそのしなやかな指先は名前の頬に落ち着いた。
添えられる温もり。それは慣れ親しんだ感触であった、けれど。
「……っ、」
「名前?」
「い、いえ……!!」
何故だか。そう、本当に何故だか。名前の胸は突然に締めつけられた。ぎゅっと、紐で締め上げられたみたいに。痛みが走り、慌てて飛び退いた。
そうしてから一息置いて。名前は自身の胸に手をやった。けれどそこに変化はなく、痛みも風のように過ぎ去っていた。そう、嘘のように。
「で、では後ほどお手合わせをお願いします」
「あぁ、二言はないよ。食後の運動にちょうどいいしね」
けれど揶揄われ、その違和感も霧散する。痛みも、理由を考えようとしていたことも。すべてを忘れ、名前は眉間に皺を寄せた。
「……その余裕、少しは剥ぎ取ってみせますからね」
「はいはい、楽しみにしているよ」
悪戯っぽい光を瞬かせたまま。楊ゼンは片目を瞑って、右手をひらりと振った。
そんな姿も様になっている。まるで絵画みたいに。でも目の前にいる人は間違いなく本物で、ーー神様なんかじゃないのだ。
「……そんなの、当たり前なのに」
去っていく背を見送り、名前は独りごちる。収まったはずの心臓がいたく脈打っていて、今度ばかりは押さえてみてもなかなか静まりそうになかった。