(元)公主、姜族の村を訪う


 殷が滅び、周が興った後、身寄りをなくした名前を引き取ったのはやはり申公豹だった。
 彼は自身の邸をあっさり手放すと、まだ落ち着きのない朝歌を発った。公主ですらなくなった名前を連れて。彼は長らく住み処としていた地を惜しむ様子もなく旅立った。
 そしてそれから幾日も経たずして、名前は朝歌から遥か西方、宝鶏一帯にまで来ていた。いつかと同じように、黒点虎の上、申公豹の後ろに乗って。
 
「いったいなんだと言うんです?」

 慣れない野宿生活の上、今回は理由もわからず叩き起こされた。そんな名前の機嫌は最悪で。

「そりゃあもちろん私の師に会いに行くんですよ、あなたを紹介しにね」

「わざわざこんな朝早くに?」

 フフフといつもの笑いを浮かべる申公豹にも苛立ちを感じてしまう。出会った頃ならいざ知らず、このところはそう思うことも減っていたというのに。
 爽やかな青空もきらびやかな日差しも、今の名前には毒でしかなかった。

「……行けばわかりますよ」

 むっつりと唇を引き結んだ名前を振り返り、申公豹は意味ありげに口端を上げる。しかしそんなものはなんの慰めにもならない。
 名前は眉間に深々と皺を刻み、申公豹を睨めつけた。

「ならば今教えてくれてもよいではないですか」

「それじゃあつまらないでしょう?私はあなたの百面相が見たいのですから」

「……悪趣味」

 名前は彼の背に頭を押しつけた。
 これは頭突きだ。抗議の意だ。見習い道士になったばかりの名前が、この油断ならない道化にできるのはこれくらいだから。ただ、それだけであって。

「こらこら、じゃれつかないで。まったく落ち着きのない人ですねぇ」

「じゃれついてなどいません!わたしは怒っているんです!!」

 名前には力がない。だから申公豹にもこうしてからかわれてばかりなのだ。やはり今一番名前に必要なのは、理不尽な力に抗うことのできる強さなのだろう。

「……絶対、見返してやりますから」

 どうせ道士となるのなら。この先長い時を生きることになるというのなら。己の道は己で選ばなければならないのなら。
 ーー名前は、申公豹を越えたいと思った。
 新たな国で己の居場所を掴めと太公望は言った。それが名前に課せられた罰なのだと。
 困難な道のりだ。何せ名前は禁城の外をほとんど知らない。そんな名前が本当にそれを見つけられるのか。だがだからこそ罰としては尤もだろう。
 そのためにはまずこの男の鼻を明かす。
 それが今の名前の当面の目標であり、胸にある唯一の願いであった。

「はいはい、楽しみにしていますよ」

「あなた、絶対本気にしていないでしょう!」

 たとえ申公豹に笑われようと。
 そこに嘲りや蔑みが含まれていない限り、名前はその背を追いかける。
 そうしたいと、そんな願いが何もかもをなくしたはずの名前のなかにいつの間にか芽生えていた。



 そもそものところ。
 名前はすべて信じていなかった。「師に会いに行く」その言葉すらも。

「……あの、この方があなたの師って……」

 宝鶏一帯には姜方ーー姜族の村が広がっていた。
 姜族といえば殷代初期には王朝に仕え、そしてほんの数日前までは殷の征伐により奴隷や犠牲として使われていた一族だ。彼らは農業や牧畜中心の生活を送っていたがために、邑姜の手で纏め上げられるまでは殷に歯向かうほどの大集団になることがなかった。
 彼らからすれば名前は憎むべき王朝の公主で。名前からしたら、いっそのこと全てを詳らかにして断罪してほしいほどに居心地の悪い場所だった。
 そんな場所に申公豹の師はいた。
 申公豹よりも年少なのではないかと思えるほどに若々しい容姿。それとは対照的に遠くまで見透かしてるかのように達観した瞳。草原の色をした髪が印象的な仙人は、申公豹とは打って変わってごく普通の身なりをしていた。
 彼らは名前を置き去りにして話を進めていた。
 歴史の道標、女カ。彼女の眠りと繋がっていたという申公豹の師、太上老君。彼は女カが覚醒したのだと言った。そしてそんな彼に、申公豹は女カと戦えと迫った。
 けれど太上老君は乗り気ではないらしく。しかし申公豹がそんなことで諦めるはずもなく。
 師であるはずの太上老君を拘束して、黒点虎にくくりつけていた。
 そんな申公豹に、名前はそろそろと訊ねる。本当にこの人がーー太上老君が師匠なのか、と。

「本当ですよ、大体そんなつまらない嘘は吐きませんから」

「ですがあまりに似ていませんよね?この方のほうがよほど仙人らしい……」

「そうですか?ただの世捨て仙人ですよ」

「そういうあなたは道化仙人というわけですか?」

「ははは、相変わらず面白いことを言いますねぇ、あなたという人は」

 名前としては面白いことを言ったつもりはない。
 仙人界の事情を知らない名前は、申公豹の道化ぶりもそういう派閥があるのかと思っていた。だからてっきり彼の師もそういう類いの人だろうと予想していたし、そもそものところ彼に師匠なんているとは想像すらしていなかった。

『ずいぶんその子のことを気に入ってるんだね』

 この時太上老君は怠惰スーツとやらに閉じ籠っているはずだった。
 なのに確かに彼の声がした。
 しかもそれだけではなく。

「な、なんですかこれは!?」

 太上老君は確かに怠惰スーツのなかに入った。それを名前は見ていた。そしてその怠惰スーツは目の前にある。黒点虎に紐で繋がれて。
 なのに太上老君は名前の目の前にいた。うっすらと透けた体で。名前の前に、浮かんでいた。

「あぁ、立体映像ですよ、これは」

「立体映像……?」

「そういう宝貝だと思っておけばいいですよ」

「はぁ……」

 成り立て道士の名前には未知の領域だ。今は深く突っ込まないでおこう。
 ーーところで気になることがひとつ。

「気に入っているというのはあなたの勘違いでしょう。もしくは玩具のそれではないかしら」

 妲己に渡すには惜しいとかつて申公豹は言ってくれた。それは名前を評価するものではあったけれど、しかしだからといって気に入っているということにはならない。もしそうだとしても、それは名前を退屈しのぎの玩具と思っているだけのことだろう。
 そういう意味で名前は言ったのだけれど。

「あ、自分で玩具と認めましたね?」

「認めてません!」

 申公豹はニヤニヤと笑いながら名前を見た。首輪でもつけましょうか。そんないらない世話まで焼いて。
 だからすかさず名前は抗議した。そうしておかないと勝手に受け入れたことにされてしまうから。
 そんなやり取り、とても気に入っている相手にするものではない。

『申公豹はいつだって楽しそうだけど、今は格別にそう見えるよ』

「……そう、ですか」

 太上老君は欠伸をひとつすると、『おやすみ』と言って消えていった。今度こそ、本当に。
 それを見送り、名前は申公豹を見上げた。

「なんでしょう?」

 彼はいつも通りに笑った。いつも通り、底の見えない顔で。
 その瞳の奥を覗いても彼の心は読めやしない。名前には、まだ。
 そして明確な答えも申公豹はくれなかった。

「……なんでもありません!」

 だから名前も聞くことはしなかった。聞いてしまったら敗北を認めたことになる。今以上の悔しさを受け入れる気には到底なれなかった。

「やはりあなたは面白い」

 現状既に悔しさでいっぱいであるのを見ない振りして、名前は頬を膨らませた。
 大人げなく拗ねる名前を、申公豹はやはり笑いながら眺めていた。目を細め、穏やかに。
 その笑顔が出会った頃とは違うことに名前は気づいたけれど、指摘することはしなかった。
 ーーその笑顔が、嫌いではなかったから。