太公望×(姉属性+小悪魔)姫昌の娘2


 目覚めたばかりの瞳を焼いたのは、燃えるような西日だった。

「よかった、目が覚めたのね」

 そう言った声の主も逆光になってよく見えない。そのはずなのに、太公望にはそれが誰だかすぐにわかった。

「なんだ、そんなにわしが心配だったか」

 名前ーー西伯侯姫昌の娘。天然道士の彼女は、いつだって人をからかうような口振りを好むのに、なぜだかこの時は心底安堵したように息をついた。
 太公望を覗きこむ目はゆるりと溶け、眉は困ったように下がり、口許は喜びに綻んでいる。そんな、名前の顔。
 明らかに太公望を心配していたとわかるそれ。だから太公望は彼女に代わって軽口を叩いた。きっと彼女は否定するだろう。もしくは冗談に乗ってくるか。そのどちらかだろうと太公望は踏んでいた。
 なのに。

「……うん、すっごく心配した」

 彼女は、名前は、太公望の手に頬を寄せた。太公望が眠っている間も、目覚めた後も。ずっと繋いでいた左手に、頬を寄せた。
 少女のなめらかな頬。その感触も温もりも、余すところなく太公望に伝わってくる。感触も温もりもーー少女の、不安も。

「いつもいつも無茶ばかりするんだもの。心配するに決まってるでしょう?」

「わしは無茶なことはせんよ」

「……もう」

 名前は怒ったように、あるいは呆れたように唇を尖らせた。
 それに笑いでもって返しながら、太公望は身を起こす。そうすると地面に打ち付けた頭がほんの少しだけ痛んだ。
 ほんの少し、それだけなのに。

「やっぱり無茶してるじゃない」

 そんな微かな変化すら彼女は見逃さない。その語調は彼女が日頃自称する姉そのもので。彼女に負傷した箇所を確認されながら、太公望はおかしなものだと内心思っていた。
 おかしなものだ。彼女は太公望よりずっと年下で、太公望からすれば幼子のようなものであるのに。そしてそれは彼女にとっての太公望も同じであるはずなのに。
 それでもこの関係には不思議と違和感がなかった。

「あ、反省してないでしょー」

 笑ってる、と目敏い彼女は声に怒りを滲ませる。
 「悪い子にはお仕置きしなくちゃ」そう言うが、彼女の目は悪戯っぽく輝いていた。いつもと同じように。
 名前は表情だけで怒りながら、太公望の頬をつねった。

「こら、怪我人には優しくせんか!」

「自分から怪我しに行くような人には適用されませーん」

「いやいやこれは不可抗力だろう……」

 太公望の怪我。頭にできた大きなこぶ。
 それは殷のスパイ、ケ蝉玉との一騎討ちの果てにできたものである。
 だから己は悪くないーー太公望の主張を、しかし名前は受け付けない。

「ダメよ、キミのそれは不可抗力じゃないもの」

 彼女は断言し、それから表情を緩めた。

「これも策だったんでしょ、……周の軍師さん」

 名前の目。蜂蜜を溶かしたようなその目が柔らかに笑む。それは労りと慈しみに満ちていた。

「いくら多数に受け入れられていたとはいえ、彼女は殷のスパイ。なぁなぁにはできないものね。……だからあなたは理由を作った」

 ケ蝉玉が勝てばスパイ活動の継続を許し、太公望が勝てばそれを退ける。その決闘に彼女は勝利した。そうして彼女が周にいることに異議を唱える余地をなくした。
 太公望たちがいくら彼女に害意がないと理解していても、受け入れられない者は必ずいる。そうした者の反感をなくし、周が割れるのを防ぐ。そのために太公望はわざわざ一騎討ちという道を選んだのだろう。
 名前の言葉は、問いの形をしていなかった。確信。彼女は彼女の導き出した答えに絶対の自信を持っていた。一片の疑いもなかった。彼女自身の答えに対しても、太公望の思考に対しても。

「……わしはそこまで考えておらんよ」

 真っ直ぐな名前の目。なぜかそれにむず痒さを感じ、太公望は目をそらした。
 肩を竦め、「そもそも……」と言葉を続ける。

「負けるつもりだったなら、わしはおぬしに相当ひどいことをしたことになるぞ?わざわざあんな着ぐるみを用意させたのだから」

 対ケ蝉玉用の着ぐるみ。彼女が苦手とする鳥の形をした被り物。それを一日足らずで作り上げたのは他でもない名前である。彼女は散々不平不満を漏らしながら、しかし結局時間内に完成させた。
 その苦労を自ら意味のないものであったと。そう定義してしまうのかと。太公望が問うても、名前の考えは揺らがない。

「あなたがひどい人っていうのはもう知ってるもの」

 名前は笑って、そのひどい人の頭を撫でた。痛む箇所に気を配りながら。労りと慈しみでもって触れた。

「……お疲れさま、太公望クン」

 彼女の後ろからは西日が差していた。それは明々と燃え、なにものよりも光を放っていた。
 そのはず、なのに。

「……あぁ、」

 蜜色の甘やかな瞳。赤く色づくなめらかな頬。ーー紅を刷いた艶やかな唇。
 そうしたものが作り出す少女の微笑に目を奪われた。それ以外、目に入らなかった。
 おかしなことだと思う。長い年月を生き、欲などというものを忘れるほど遠くまできたというのに。
 けれど目を奪われたのは事実で。息を呑んだのは現実で。ーー心臓が痛いほど胸を叩いたのもまた、真実であった。