太公望×(元気+天然)妹弟子


 兄のようだと思っていた。その背中を追いかけるのが当たり前で、手を伸ばせばいつだって応えてくれる。そう、思っていた。
 ーー思っていた、のに。

「…………っ、」

 駆け寄ろうとした足が止まる。呼び掛けようとした喉が支える。伸ばしかけた手が、力なく崩れる。
 兄のようだと思っていた。その背中をいつも見ていた。名前が手を伸ばせばいつだって応えてくれた。
 なのに、今の彼は名前に気づかない。彼が見ているのは名前じゃない。名前じゃない、名前の知らない女のひと。名前よりずっと大人びていてずっと洗練されていて、ずっと、ずっとーー女性らしいひと。

「好きなのです、太公望さま……あなたのことが」

 そう言った声すら美しいと名前はぼんやり思った。
 西岐の城。その回廊の片隅。太公望と見知らぬ女性の姿を見つけた名前は、咄嗟に柱の影に隠れていた。
 それは反射的なものではあったけれど、しかし対応としては間違っていなかったらしい。女性の声に、名前は知らず唇を噛んだ。
 兄のようだと思っていた。そう、今だって。だから何に憚る必要もない。いつもみたいに彼を迎えにいけばいい。いつも、みたいに。
 なのに、名前の足は根が生えたように動かない。目の前の光景から目をそらしたいのに、体がいうことを聞かない。
 見たくなんてなかった。想像すらしたこともなかった。女性が彼の首に手を回すのも。その顔に唇を寄せるのも。
 見てはいけないと頭は警鐘を鳴らす。目眩がするほどに頭が痛む。ぐちゃぐちゃに掻き回されて、視界が歪む。
 そこでようやく名前は自由になった。というより先程まで凍っていた体が勝手に動き出した。
 二人に背を向け、名前は駆け出す。早く、一刻も早く、ここから逃げなくては。名前の頭にあるのはそれだけだった。
 自分を呼ぶ声が聞こえたような気がした。けれど躊躇わない。立ち止まらない。ただただ走る。どこまでも遠く。
 焼きついた光景が消えるように、と。
 走って、走って、走り続けて。周りなんて何も見ていなかった名前は、角を曲がったところで人影とぶつかった。
 常ならばあり得ないことだ。けれどこの時は気配も察することができなければ、足を踏ん張ることさえできなかった。

「おっと……、大丈夫か?」

 よろめいた名前の手を掴んだのは、名前もよく知っている人だった。

「発ちゃんさん……」

 西伯侯姫昌の息子、姫発。いつだって呑気な顔をしている彼が、なぜだか名前を見下ろして瞠目した。

「おい、どっか痛むのか?」

 泣いてる、と彼は名前の目許を拭った。
 そう言われて初めて名前は自分の頬を伝うものに気づいた。

「あれ……?ヘンですね……、どこも怪我なんてしてないのに」

 おかしいな、と名前は笑う。笑いながら、自分でも濡れそぼった顔を拭う。
 なのに一向に乾かない。むしろ涙はどんどん溢れ出て止まらなかった。
 狼狽える名前を、姫発は珍しく静かに見ていた。それから、少し考えるような仕草をした後で、名前の肩を抱き寄せた。

「……痛くねぇのに泣くわけないだろ」

 そう言って、名前の頭を撫でた。
 姫発の体からはいい匂いがした。心が落ち着く香の匂い。白檀の薫りに、混乱していた名前の頭も自然と凪いでいった。

「わたし、どうしちゃったんでしょう?」

「知るかよ、何があったかも聞いてねぇのに」

「聞いてくれるんですか?」

 顔を上げると、姫発の渋面が目に入った。面倒くさそうな、関わり合いになりたくなさそうな。そんな顔をしていたのだけれど、彼は頭を掻いて言った。

「まぁ……しょうがねぇな、聞いてやるよ」

 その言葉に名前は甘えることにした。何しろ自分ひとりで抱えるには荷が重すぎる問題だったからだ。
 名前は洗いざらい話した。兄弟子と見知らぬ女性が親密そうにしていたこと。それを見てひどく息苦しくなったこと。
 名前は真剣だった。真剣に悩んでいた。これからどうすればいいのか。今はまだ兄弟子の顔すら見れそうになかった。
 なのに一通り聞き終えた姫発は「あー」と微妙な顔をして溜め息を吐いた。聞かなきゃよかった。そんなことまでぼやいて。

「ええ、なんですかその反応!わたしは真面目に悩んでるんですよ!!こんなに頭を使ったことなんてないってくらい!」

「いや逆にこっちが"ええ……"って言いてえよ。なんだお前、そんななりして子供かよ。びっくりしたわ」

 ようするに、と姫発は憤慨する名前の額を弾いた。痛みから名前が口を閉ざしている間に彼は続ける。決定的な言葉を。

「お前、太公望のことが好きなんだろ」

 単刀直入。単純明快。たった一言。それだけで姫発は名前の思考を止めた。

「好きだから他の女といちゃついてんの見て嫉妬した、それだけだろ?」

 しかも姫発は追い討ちをかける。名前が逃げないよう。逃げられないよう。明確な言葉でもって名前を暴く。
 ーー好き。
 好きってなんだろう。
 兄弟子のことはもちろん好きだ。ずっと、名前が崑崙山に来たときからの付き合いなのだから。長い間共にいた。共にあるのが当たり前だった。だからーー
 そんな名前の思考を読み取ったかごとく、姫発は再度その額を小突いた。痛い、と呻く名前を無視して。

「言っとくけど友達として〜とかっていうベタな言い訳はやめろよ」

「……わかってますよ。だいたい友達とかもっとあり得ないですし」

 ーーそう、そんなのは言い訳だ。
 名前だってわかってる。自覚してる。そこまでバカじゃない。兄弟子に呆れられるほど座学は不得手であったけれど、さすがに自分のことくらいはわかる。
 好きとか愛してるとか、そんなのは今でもわからない。違いも中身も、名前の頭では理解できない。
 わかるのは、あの光景が名前にとってすこぶる面白くないものというだけ。
 けれどそれだけで十分だった。

「わたし、今すっごく気分が悪いです」

「おう」

「そりゃあわたしには関係ないって言われたらそれまでですけど、でもそれはあちら側の都合で、わたしには関係大有りですもん」

「そうだな」

 それでどうするんだ、と姫発は言った。「奪い取るか?」それは冗談を言っているようで、しかしその実真剣であった。真剣に、名前のことを案じていた。
 だから名前も笑って頷けた。背中を押してもらえた、それは今の名前にとって最も重要なことであった。

「もちろん。戦わずして負けを認めるなどできませんから!」

 拳を握る名前に、姫発も口角を上げる。「なら行ってこい」そう言って、名前を立ち上がらせる。

「ま、なんだ。もしダメなら俺が貰ってやるよ。ちょいと子供っぽいとこに目を瞑ればなかなかのプリンちゃんだからな」

「それ褒めてます?ねぇ褒められてますわたし?え、わたしってばいい女ですか?」

「だからそういうところがだなぁ……」

 姫発は呆れ顔で、今度は名前の頭をぐしゃぐしゃに掻き回した。そしてその手で整えてやると、ひどく優しげな目で名前を見た。

「……褒めてるよ、名前」

 だから頑張れとその目は言っていた。
 名前は「約束ですからね!」と答えた。答えながら笑顔で姫発に小指を向けた。

「貰ってくれるって約束、破っちゃダメですからね!」

 そう、勇んでいた名前は当然先刻二人をーー太公望を見かけた場所まで戻るつもりだった。
 ーーのだけれど。

「おう名前、奇遇だのう」

 角を曲がったーー瞬間、名前の腕は引かれ、わけもわからぬうちにどこかの部屋へと連れ込まれた。
 何事かと目を白黒させる名前、その手を引いたのは他でもない兄弟子ーー名前の悩みの元凶、太公望である。
 彼はいつもの飄々とした物言いで、しかし確実に名前を壁際に追い込んだ。
 とはいえ相手は兄弟子、危険を感じてはいなかった。ただ何が何やらわからない。混乱する名前の目を奪ったのは彼の言葉でも行動でもない。
 その口ーー先程見知らぬ女性が触れたはずの場所である。

「名前?」

 だから太公望が怪訝そうに問いかけても気づかない。気にもとめない。その唇が、他の誰かが触れたはずのそれが自分の名を呼ぶのが嫌だと思った。
 心からそう思ったから、

「……っ」

 だからこの時も体はひとりでに動いていた。自覚したのは離れた後ーー目を見開いた太公望を間近にとらえた後であった。
 他の誰かが触れた唇。それを不快に思っていたはずなのに、自身が上書きした今はとてもいとおしく思えた。込み上げる熱も、もっと触れたいと願うのも、たぶんきっと彼をいとおしいと、そう思っているからだ。
 そのことを名前は本能で理解した。理解し、すっかり満足して、太公望に抱きついた。

「えへへ……」

 さっきまで悩んでいたのが嘘みたいだ。受け入れてしまえば、理解してしまえば、なんてことはない。むしろこの胸の痛みすらもいとおしく思える。

「好きです、太公望さん。あなたのことが……誰より、すき」

 だから言葉が自然と溢れ出す。
 女性らしさでいったら名前には勝ち目がない。ないけれど、それでもひとりでに口から出た言葉は誤魔化せない。誤魔化したくない。名前に難しいことはわからないけれど、わからないからこそ初めて知った感情をなかったことにはしたくなかった。
 名前は太公望の双眸を見つめ返した。それが驚きに固まるのも、緩むのも、全部見つめた。見つめていたいと思った。
 なのに太公望は隠してしまう。両手でその顔を覆い、深い深い溜め息を吐く。

「おぬしは……わざとやっているのか?」

「わたしはわたしのしたいことしかしていませんよ?」

「天然か……」

 再び露になった太公望の顔。それは名前の見たことのないーーとてもとても弱りきった顔であった。
 それは今にも泣きそうなほどで、けれど狼狽えた名前の手を握るそれは対照的なほどに強いものだった。

「その言葉が聞きたかった。その言葉を……ずっと待っていた」

「ええっとそれは……」

「言うな、名前。それ以上おぬしに何か言われたらわしの身が持ちそうにない」

 名前には太公望の言葉の意味がさっぱりわからなかった。何しろ名前が言いかけたのは太公望に傷を作るようなものではないーーつまり名前すら自覚していなかったことを太公望はいつから気づいていたのかという疑問であったのだから。
 それを後に話したところ、太公望には呆れ果てられてしまった。わしにおぬしの気持ちなどわかるはずもなかろう、そう言いながら。
 では太公望の言葉の真の意味とはなんであったのか。
 ともかくそれは暫しの間名前の奥底で疑問となって沈むことになる。
 ただその答えがなんであるかはこの時の名前にはさしたる問題ではなかった。なにせこの後太公望に自身が言ったのと同じ台詞を耳許で囁かれたのだから。
 今度は名前の目が見開く番である。

「でも、さっき女の人と、ええっとその、アレでソレな感じのことを」

「いやあれは……」

 太公望は決まり悪げに頬を掻いた。
 曰く、あれは寸前で止めたのだと。

「ホントですか?」

「ああ。わしは姫発のように節操なく女を追いかけたりはせんよ」

「……ホントのホントに?」

「……ホントのホントに」

「ならいいです」

 それならなんの気兼ねもない。いや、フラれた身の上の女性は存在するが、彼女も名前に哀れまれたくはないだろう。名前にできるのは彼女にも最良の相手が見つかるよう祈ることだけ。ただし、太公望は渡せないが。
 とにかく今の名前はいっぱいいっぱいだった。ただ彼を、太公望を感じていたい。それだけで、名前はまた抱き着いた。

「好きって何回までなら言ってもいいですか?」

「何回でも……と答えると本当に際限なく言いそうだな……」

「さすが!よくわかってますね、その通りです!!」

 やれやれと太公望は言った。けれど名前にやめろと言うことはなかった。
 そういうところも好きだ。思うまま口にして、名前は太公望の肩に顔を埋めた。
 それは姫発のような高貴な香りではなかったけれど、名前が一番安心できる匂いがした。
 いつだってこの背を追いかけてきた。けれど、今はもっとと願ってしまう。
 背中ではない、その隣を歩みたいと。




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お題箱より。
ありがとうございました!