普賢真人×(引きこもり+無口)道士2
蓮の花咲く池の畔には静けさが充ちていた。
けれど近頃はたびたび波がたつようになっていた。近頃ーーつまり、太公望が旅立ってからは。
「あぁ、また無茶して……」
水面には金鰲の仙道と戦う知己の姿が映し出されていた。
名前が太乙真人に作らせた宝貝。千里眼ほど使い勝手のいいものではないが、太公望の動向を追うくらいならばわけなかった。
別に太公望の心配をしているわけじゃない。ただ約束があるからだ。
そう誰にとはなしに言い訳しながら、名前はわざわざ膝を折って水鏡を覗き込む。
当初とは違い、大所帯となった太公望一行。彼らは西岐を目指しているらしかったが、しかし目前で追手に阻まれていた。
九竜島の四聖。名前も名前だけなら聞いたことがある。だからつまり、これまでの敵とは違うのだ。
水の膜に囚われた太公望をハラハラと見守るしかない名前。だから背後に立つ人影に気づかなかった。
「ずいぶんご執心だね」
「普賢、」
声をかけられ、名前は慌てて立ち上がる。
からかうような台詞。しかしそれを言った普賢真人の顔はそれとはほど遠く、まるで小さな子供を見るような目で名前を見ていた。
普賢はいつも唐突だ。今だって、名前は誰もいないから太公望の様子を伺っていたというのに。普賢はいつの間にか名前の後ろに立っていた。
けれど彼に悪気がないのは嫌というほど知っているから、名前も文句が言えない。
だが、これだけは反論しておかねば。
「別に、そんなんじゃない……」
ご執心、というのは訂正してもらいたい。それではまるで名前が太公望を心配しているみたいじゃないか。そういうのは柄じゃない。むしろ似合うのは普賢の方だ。
そんな風に頭では色々考えてはいるのだが、実際の名前が口に出せたのはたった一言だけだった。それだって小さく、か細いもので、名前は目を伏せた。
普賢じゃなければ。相手が彼じゃなければ、名前ももっと自然に話せるというのに。
そう考えてしまう自分も、彼の訪いに浮き足立つ自分も嫌だった。嫌なのに、どちらも制御が効かず、名前はひとりどうしようと頭を悩ませた。
俯く名前に、しかし普賢は柔らかな微笑を浮かべ、その頭に手を乗せた。
驚きに顔を上げる名前に、彼は言う。「僕は嬉しかったよ」と、目を細めて。
「僕が頼んだから……だよね、名前がこんな宝貝まで用意したのは」
「……うん、」
「だから嬉しいんだ。ありがとう、名前」
そこで"だから"と続く理由が名前にはいまいちわからない。わからないけれど、なぜだか気恥ずかしさが名前の体を駆け抜けた。なぜだかーー普賢の微笑があまりに優しく、眩しいほどにきれいだったからだろうか。
「……普賢のせいだけじゃない、から」
口早に名前は言葉を紡いだ。照れ隠しに。目許を赤らめて。
「太公望は弱くない、けど、一応……その、よく知ってる人だし」
普賢は太公望と親しい。それこそ名前が嫉妬するほどに。
だからきっとこの言葉にも普賢は喜んでくれるんじゃないかーーそんな風に思ったのだけれど。
「……そう」
それだけを呟いた普賢の顔には変わらず微笑がある。なのに少しだけ眉尻が下がっているーーように思えた。
けれどそれを問う前に、普賢の表情はいつものものに戻ってしまう。掴み所がない。太公望もそうだが、普賢も風のような男だ。近くにあるようで触れられない。けれどだからこそ心地がいいのかもしれないと名前はぼんやりと思った。
そうしている間にも人界は忙しなく時間が流れていく。穏やかに停滞する仙人界とは違うのだ。
太公望一行は九竜島の四聖を圧倒し始めていた。これなら勝てるだろう。普賢と水鏡を眺めながら、名前が内心胸を撫で下ろした時だった。
「ーー不味い」
普賢の圧し殺した声。同時に、水面がさざめき立つ。ピリピリとした張り詰めた空気。それがこちらにまで伝わってくる。
息苦しさ。心臓は嫌な音を立て、内蔵を鷲掴みにされたような感覚に囚われる。
ーー太公望たちの前に現れたのは、殷の太師聞仲であった。
「……行かなきゃ、」
名前は無意識のうちにそう呟いていた。行かなきゃ。ーー太公望を、守らなきゃ。
それは普賢との約束があったからではない。それだけではなくーー認めたくはないが、太公望も名前にとって大切なひとであるのだ。普賢とは違う意味で、彼もまた特別だった。
なのに、立ち上がった名前の手を普賢が掴む。
「ーー本当に?」
本当に、行くのかーー?
普賢はそう問いかけていた。
水面に映る、追い詰められた太公望たち。それほどまでに聞仲は強いのだ。名前が行ったって、できることなんてないのかもしれない。
でも。
「……わたし、約束は守りたいから」
普賢の目を真っ直ぐ見つめる。いつもであれば眩しすぎて名前にはうまく見ることができなかった彼の瞳。けれど今は、落ち着いて見つめ返すことができた。
だからだろうか。
「……うん、わかってる」
普賢はそっと手を離した。少し寂しげに視線を落として。
繊細な睫毛に彩られた瞳の奥で彼が何を思っていたのか名前は知らない。気にはかかったが、今は緊急事態だ。
名前は彼を残し、人間界へと降りていった。
しかし結果として、名前の行動は無駄骨に終わった。
「まさか引きこもりのおぬしが出てくるとはのう……」
おまけに太公望にはニヤニヤとからかわれる始末。
名前は頬を膨らませ、そっぽを向いた。決まりの悪さに赤くなる顔。それを隠そうとしたけれど、太公望にはきっとバレバレだろう。
名前が人間界に着いた時、勝敗は既に決していた。太乙真人特製の宝貝を使ったのに、だ。
名前にできたのは自身の宝貝で彼らを癒すことだけ。そして彼らを西岐まで運び、力尽きた太公望が目覚めるのを待っていた。
昏々と眠り続ける太公望。名前は祈るようにしてその手を握り続けた。昼も夜も。
なのに、目覚めた途端にこれだ。
「……何が言いたいの」
「いや?別になにも?」
「…………」
すっとぼけた返事に二の句が継げない。言い訳をすることも、嘘を吐くことも。
逃げ場を塞がれ、名前は太公望を睨んだ。彼には借りがある。ーーとはいえ、さすがに殴りたくなってくる。実際にはしないけれど。
「その口と顔を黙らせたい……」
「おぬしはもう少し素直になるべきだがなぁ」
痛いところを突かれ、名前は言葉に詰まった。素直に。そう、なりたいと思ってはいるのだけど……。
「……どうすればいいかわからないんだもの」
ぽろりと零れる本音。言ってから、しまったと思った。けれど、太公望がそれ以上からかうことはなかった。
代わりに、頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜられる。
「なに、なんなの」
「いや?」
「……意味のないことはしないでほしいんだけど」
手を払い除け、奪われた視界を取り戻す。ついでに乱れた髪も急いで整えた。引きこもりとはいえ、身なりには気を遣っているのだ。
そもそも女の髪をぐしゃぐしゃにするなど言語道断。名前が文句をつけると、太公望は「せっかくわしが励ましてやっているというのに……」と不満そうな声を洩らした。
「……励ましとか、いらない」
なんの、とは聞かなかった。いや、聞けなかった。聞いたら墓穴を掘ることになる、そんな予感がした。
だから、名前は虚勢を張る。
「あなたに言われなくたって、わたしは変われるから」
「ほー」
「……信じてないって顔」
「信じてないからのう」
どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのか。
太公望のペースに乗せられている。その自覚はあったけれど、名前には啖呵を切るしかなかった。それで自分が追い込まれようと。後で悩むことになるとわかっていて、それでも名前は立ち上がった。
「……絶対、見返してみせるから」
太公望を見下ろし、言い切ってみせる。
これからのことを考えると頭が痛い。けれど、道がひとつに絞られ、ほんの少し心が軽くなった。
退路は塞がれた。後戻りはできない。ならば、やるしかないのだ。
それは逃げてばかりの名前にとっては絶好の機会であった。変わりたいと思っては、変わることのできなかった名前には。
ーーそれが太公望のお陰だとは、口が割けても言わないが。
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