武官、想いを告げる
果たして探し人は宿営地の外れにいた。
「天化どの、」
名前は努めて普段通りに彼を呼んだ。けれど本当に平静でいられたかはわからない。宿営地には風が吹いていたし、名前には自分の声がよく聞こえなかった。
だから振り返った彼が決まり悪そうな顔をしていたのは、名前のせいかもしれない。もちろんそうじゃない可能性もある。どちらにせよ、彼の顔に一種の恥じらいが浮かんでいるのは紛うことなき事実であった。そして名前が躊躇い、立ち止まってしまったのも。
「あー……」
言葉を探すように、天化は頭を掻いた。名前もまた、視線をさ迷わせた。ふたりの間には友人というには遠く、他人というには近い、微妙な距離が開いていた。
伏せられた目に落ちる影。それは彼を呑み込むようで。彼の未来を暗示するようで。
ゴォっと一際強く風が吹いた。それはひどく重たげで、陰鬱な気配をしていた。
名前は身震いした。寒いわけじゃない。怖いわけでも。ただ、なぜだろう。呼吸がうまくできなかった。
天化もまた、何かを感じたのだろうか。微かに眉根を寄せ、けれどそれを振り払うように口角を上げた。
「またカッコ悪いとこ見せちまったな」
そう言って笑う彼に、名前は必死で頭を振った。
名前は胸を押さえた。ひゅうっと喉が鳴る。心臓が早鐘を打つ。舌は縺れるようで、しかし言わなければと一歩、足を踏み出した。
「いいえ。そんな、そんなことありません。絶対、」
言ってから、名前はこれではダメだと首を振った。そうじゃない。言いたいこと、言うべきことはもっと他にあるはずだ。
名前はひとつ息を吸った。吸って、吐いて。それから、ひた、と彼を見つめた。
彼の背後からは日が射し込んでいた。射し込んだ日は、しかし彼を境に黒々とした影となっていた。
けれど彼の緑がかった青色の瞳は、そのただなかであっても名前の目に焼きついた。美しく輝く碧玉。それに触れたいと、どうしようもなく思った。
だから名前は口にすることができた。先程よりもずっと穏やかな心で。
「わたしも、太公望どのと同じ意見です。あなたにこれ以上怪我をしてほしくない。……でも、」
自身と向き合いながら、名前は言葉を探した。耳鳴りは止み、後にはさやかな風だけが残っていた。
それに押され、言葉はまろぶようにして走り出す。
「わたしは武人です。だから戦うなと言われたあなたの気持ちも……理解できると自負してます」
ですから、と名前は言葉を続ける。
崖を転がるように落ちるそれを、天化は僅かに目を見張って聞いていた。だがそこに曇りはない。そのことに安堵し、名前は唇を湿らせた。
一拍、呼吸を置き、それから。
「あなたはあなたの選んだ道を進んでください。それであなたの気高き心が守られるのならば。……どんな結末になろうと、わたしはその背中を押したい」
「名前……」
言い終えた名前に、最初天化は呆気にとられたような、そんな顔をしていた。
けれど徐々にその顏が崩れ去る。くしゃり、と。少年のように、泣き出す寸前のように、彼は顔を歪めた。
「どうしてあんたは欲しい言葉をくれるんだろうな、いつもいつも……」
「それは……」
名前は言葉を詰まらせた。
言うべき時ではない。そう思っていた。
けれど今、それと同時に思ってしまった。
「ーーあなたが、好きだから」
ーー伝えなくては、と。
今だからこそーー永遠の離別があるかもしれないからこそーー伝えなくてはならない、そうでなければいつか後悔する日が来ると、名前は思った。
それはひどく身勝手な感情だった。そう自覚していた。以前も今も。それに変わりはないのに、止めることができなかった。
激情ではない。むしろ心は凪いだ海のように静かだった。昼下がりのように穏やかで、なのに言葉は名前の口から溢れ出た。それが必定とでもいうかのように。川が流れていくのと同じように。
「あなたのことが好きだから。あなたをずっと見てきたから。……あなたに、前を向いて生きてほしいから。ただ、それだけです」
言い終え、名前は笑んだ。それは自然と浮かんだもので、微笑に、天化は目を細めた。どこか切なげに。あるいは眩しいものでも見たかのごとく。
「名前、」
何事か言いかけた彼に、名前は静かに首を振った。
答えは求めていない。もしも彼がそれを必要としないなら、名前は永遠にそれが手に入らなくてもいいとさえ思った。
それがわかったのか、天化は口を閉ざした。けれどそれでも納得がいかぬらしい。彼の性格を考えればそれも当然か、と名前は眉を下げた。
「あの、本当に気にしないでください。わたしが言いたかっただけですから」
「そうはいかねぇさ」
天化は少し考えるような仕草をすると、「お、」と声を上げた。その手はちょうど懐を探っていたところで、彼は何かを掴むとそれを名前に放り投げた。
危なげなく受け止めた名前は、手中に収まるものに首を傾げる。
「これは……煙草?」
恐らくは天化がいつも吸っているものだろう。封の開いたそれは、中身が数本減っていた。
なぜこれを?そう目線で問うと、天化は真剣な眼差しで口を開く。
「持っててほしい。前に名前がくれた御守りみたいなご利益はねぇけど」
天化が示したのは名前が以前贈った柳の枝であった。その環は変わらず彼の手首に結ばれていた。
ーーそれだけで、名前は十分だったのに。
「……はい」
名前は手の中のそれを大事に包んだ。他人が見ればなんてことはない代物だろうが、どんな大きな真珠より輝いて見えた。
「必ず、お返しいたします」
「ーーあぁ」
どちらかが合図をしたわけではない。だが自然とふたりは歩み寄り、その拳を打ちつけ合った。互いの武運を祈って。
その顔にはもう影はなかった。晴れ渡った表情でふたりは笑みを交わし、別れた。戦いへと赴くために。