Little boy blue


 朝日の真白い光。
 カーテンの隙間から差し込むそれで夜が明けたのにようやく気づき、名前は目の前の液晶から顔を上げた。
 こんな時にも常と変わらず日は昇るのだ。どこか感傷的になりながらカーテンを開ける。
 見慣れた街並み。ビル群の間を反響する煌めき。目映いほどの白。
 怒濤の1日が終わり、気づけば世界は朝を迎えていた。
 名前は欠伸を噛み殺し、大きく伸びをした。長時間同じ姿勢をしていたせいで体が固まってしまっている。
 やはり自分には体を動かす方が性に合っていると思いながら、名前はテーブルの上のカップを手に取った。眠気覚ましにと入れたコーヒー。いつのものだか定かではないそれは当然のことながらすっかり冷めていて、名前の眉間に皺を刻ませた。
 お陰で余計に飼い主が恋しくなった。なにせ安室透の作るコーヒーは絶品なのだから。
 そんなことを考えていたのが通じたのか。

「お疲れさま、名前」

 飼い主のくせ、律儀にもノックをしてから、降谷零が部屋に入ってきた。
 名前の目が疲れているからか。それとも彼の金糸が光を浴びているせいか。なんでもないのに、彼の姿がいやに眩しく映った。いつも以上に輝いて見えたのだ。

「どうかした?」

「……ううん、なんでも」

 軽く首を傾げる仕草すら様になる。絵画に残しておいたら後の世で大きな遺産として扱われるのではなかろうか。いやむしろ彼の生きざまを伝記にでも記しておきたいくらいだ。
 疲れきった名前の頭。その半分は現実から逃避を企てていた。そしてもう半分の方はといえば、

「お疲れさま、なのは零の方よ」

 冷静に降谷零の身を案じていた。
 常日頃から無理を重ねている彼。無理と無茶が日常すぎて麻痺しているが、彼のそれを真似できる人などこの世界にだってそうそういないだろう。
 それくらい普段から過密なスケジュールをこなしているというのに、昨日一日の慌ただしさといったら尋常ではなかった。これまでに類を見ないほどに。
 だから真に労われるべきは名前じゃない。

「まったくもう……、朝帰りなんて悪いひとね」

 名前は腕を組み、呆れたように、しかし冗談めかして言った。こんな時だからこそ、あえて。
 それを受け、零は一瞬呆気にとられた顔をして、それからくしゃりと相好を崩した。

「すまない。どうしたら許してもらえる?」

「そうね、もう無茶できないようにベッドにでもくくりつけようかしら」

 トン、と人差し指で軽く彼の胸元を弾く。それだけなのに、零は「怖いな」と肩をそびやかした。からかいの光が瞬く目。それに安堵し、けれど名前はほんの少し眉をつり上げた。冗談じゃないのよ、と。

「……少しくらい、休まなきゃ」

 まっさらなシャツの下。秘された血の気配に名前は知らず泣きそうになる。酷使される彼の体。それは何より尊いものなのに。彼自身が降谷零を省みてくれない。

「それは名前だって同じだろう?」

「私は平気よ、そういう風にできてるもの」

「僕だって生中な鍛え方はしてないよ」

 彼は自身を指し示す。その体を。心と同じく鍛えぬかれた体躯を。
 そんなことは名前だってわかってる。彼が強いことは嫌というほど知っている。知っているから強くは否定できず、「そうだけど」と言葉を濁すしかない。
 だって証拠がない。名前のはただの予感で、想像で。ただーーただ、降谷零という男の白さが、儚く感じられるだけで。

「……長生きしてほしいのよ」

 名前はうなだれ、力なく呟いた。
 その手が掴む彼の指先は冷たくて、ますます名前の胸は騒ぐ。その白さに、冷たさに、ーー恐ろしいほどの、清らかさに。
 触れた先から溶けてしまいそうで、怖かった。

「……ありがとう、でも、」

 すまない、と静かな声が耳に落ちる。
 その揺るぎなさに名前は目を閉じた。
 朝日が昇るのと同じで、彼にとってはそれが当たり前なのだ。呼吸をするように彼はその身を国に捧げる。名前にはそれが彼の存在定義そのものに映った。そうあるからこその降谷零なのだと。

「わかってるわ、あなたが頑固ってことくらい。私が何を言っても無駄ってことくらい」

「名前……」

 そこで初めて。
 彼の声に、躊躇いが生じた。
 それはほんの微かなものではあったけれど、名前の頬を包む柔らかさは確かな現実だった。

「……少しだけ、仮眠をとる。だから、」

 それで許してくれないか。眉を下げる彼に、名前は思わず笑った。「私があなたに逆らえないって知ってるでしょう?」そう言って。
 彼には彼の信念があって、それを揺るがすことなど名前にできやしないのに。それでも許しを請うのがおかしくてーー何よりいとおしくて、名前は微笑んだ。

「いいわ、それで手を打ってあげる」

 名前は「子守唄もつけてあげるわ」と彼の手を引いた。ほんの冗談のつもりで。
 それくらい零だってわかっていただろう。なのに彼は「それじゃあお願いしようかな」なんて目許を緩ませて言った。
 そんなものだから困ったのは名前の方だ。子守唄なんて言い出したけれど、実際のところ名前の習ってきたものの中にそんなものは存在しなかった。実の親も兄弟も知らないのだ。当然だろう。
 けれど言い出した手前今さら後には引けない。
 必死で記憶をさらっていると、「っ」奇妙なことに突然体が宙を浮いた。

「零、あなた、なにして、」

 というか、右腕は怪我していたのではなかったか。
 慌てる名前を無視し、彼は事なげにその体を抱き上げ、ベッドに転がした。
 目を白黒させる名前の隣。彼はその身を沈め、いたずらっぽく笑う。

「寝てないのは名前も一緒、なら仮眠をとるのだって、ね?」

 有無を言わさぬ語調。お得意のそれに抗う術など名前にはない。
 険しい顔つきで名前は唸った。

「……絶対、一時間で起きるから」

「ああ、十分だよ」

「先に起きるのはナシだからね」

「わかってる」

「ましてや私が起きたらもぬけの殻、なんてこと」

「ないよ、約束する」

 指切り、と差し出された指につられると、絡めとられた。
 こうなるともう抵抗の余地はない。また名前の負け、完敗だ。
 名前が疲れた彼を甘やかして、寝かしつけるはずだったのに。
 そう不満に思いながら、彼に急かされ、名前は口ずさむ。必死で思い出した子守唄を。

「Hush, little baby, don't say a word,……」

 静かにしていて、坊や。そんな詩の歌は、誰しもが聞いたことのあるものだ。名前も誰かに歌われた記憶はないが、街のどこかで耳にしたことがあった。
 いい子だから静かにしていて。いいわ、あなたのためならなんだって買ってあげるから。だってあなたはこの街で一番かわいい私の赤ちゃんだものーー。
 そんなありふれた歌を、なぜだか零は目を細めて聞いていた。なぜだかひどくーー安らいだ表情で。

「……っ、」

「あ、ごめんなさい」

 だから名前までおかしな行動をとってしまう。
 無意識のうちに彼の頭に伸びていた手。それはその歌のように。その歌の赤ん坊に対するのと同じように、彼の頭を撫でていた。いいこ、いいこと。
 零が驚くのも無理ないことだ。そう、名前は慌てて手を引っ込めようとした。
 それを引き留めたのは、他でもない零の大きな手だった。

「……いい、このまま、」

 眠りたい、と。
 そう彼は言い残して、目を閉じる。緩やかに、柔らかに。少しの緊張もなく。
 強ばりのとけた顔は少年のようにいたいけで、無垢なものだった。

「……おやすみなさい」

 名前は彼の要望通りにした。指通りのいい髪を滑り、安眠を誘うための歌を奏でる。
 そうしているうちにすぐ、彼の薄く開いた唇の隙間から規則的な寝息が聞こえてきた。

「……お疲れさま、」

 その額に、名前はそっと口づけた。
 彼の眠りが安らかなものであるよう。せめて一時ほどは安息に満たされるよう。
 祈りながら、彼の腕の中で目を閉じた。